平家物語を読む138

巻第九 二度之懸*1

 そうしているうちに、成田五郎も現れた。土肥次郎実平を先頭に、総勢七千騎の軍勢も、色とりどりの旗を掲げ、うめき叫びながら戦っている。一方、源氏の正面軍は生田の森に五万騎で陣を固めていたが、その中に武蔵国の住人・河原太郎高直と次郎盛直という兄弟がいた。河原太郎が弟の次郎を呼んで、「名田を数多く領有している有力な武将は、直接自分が手を煩わさなくとも、家来を駆使して功名を立てる事ができる。だが、我々は自らの手で功名を立てるしかない。敵を前にしながら、矢の一本も射ずに控えているのは余りに歯がゆいので、高直はまず城の内へ紛れ入り、矢を射てみせようと思っている。だとすれば、生きて戻れない事が万が一にもあるかもしれない。お前はここに残って、後の軍功の証人になれ」と言うと、次郎は涙をはらはら流して言った。「がっかりするような事をおっしゃりますな。たった二人の兄弟であるのに、兄が討たれて、弟一人が残り留まったからといって、どれほどの繁栄があるというのでしょう。別々の場所で討たれるくらいなら、同じ場所で討死しようではありませんか」よって兄弟は、下人を呼び寄せ、最後の様子を妻子のもとへ知らせるように命じると、馬にも乗らずに粗末な藁草履を履き、弓を杖について、生田の森に逆さに並べてあった防御のための木を登って越え、城の内へ入ったのである。空には星の光しかなく、鎧を綴る革の色も定かではない。河原太郎は大声で、「武蔵国の住人・河原太郎高直、次郎盛直、源氏の正面軍、生田の森の先陣であるぞ」と名乗った。これを聞いた平家の方は、「東国の武士ほど恐ろしいものはない。これ程の大軍勢の中へ、たった二人で入ったからといって、どれ程の事ができるというのか。よしよし、適当にあしらってやれ」と、討とうとする者はいない。だが河原兄弟はこの上もない弓の名手であった。次々と矢を射立てていると、「けしからぬ、討て」と言うが早いか、西国で評判の強い弓を引く名手である備中国の住人・真名辺五郎が、弓を十分に引いてふっと矢を射た。真名辺五郎には同じく弓の名手である四郎という兄がいる。兄の四郎は一の谷に置かれていたが、弟の五郎は生田の森にいたのだ。この矢に、河原太郎は鎧の胸板をつっと射抜かれた。弓の杖にすがって動けなくなっていたところに、弟の次郎が走り寄り、兄を肩に引っ掛けて逆さに立ててある木を越えようとしたが、真名辺五郎の二本目の矢が腰の防具の隙間を射て、二人は同じ場所で死んだ。真名辺五郎の下人がそこへ向い、河原兄弟の首を取った。これらと対面した新中納言・知盛卿は、「ああ何と剛勇な武士だ。これこそ一人で千人と当たる兵士というものだ。このような惜しい者たちを助けてやれなくて残念だ」と言ったという。
 この頃、河原の下人たちが「河原兄弟がただ今、城の内へ先駆けをして討たれました」と叫ぶのを聞いた梶原平三景時は「私市党に所属する方々の失態のせいで、河原兄弟は討たれたのだぞ。今が潮時だ。寄せよ」と、合戦の開始を告げる喚声を上げた。すぐに五万騎が一度に、どっと喚声を上げた。足軽の兵士に逆さに立てられた木を取り除けさせると、梶原景時は五百騎でうめきながら突進した。と、次男の平次景高が余りに前に出ようとする。父の景時は使者を立てて、「後陣の軍勢が続かないのに先駆けをした者には、恩賞を与えてはならないとの、大将軍の命だ」と伝えた。これを聞いた平次景高はしばし馬を止めて、
   「『ものゝふのとりつたえたるあづさ弓ひいては人のかへるものかは*2
と父にお伝えせよ」と叫んで、再び突進した。「平次を討たすな、続け皆のもの。景時を討たすな、続け皆のもの」と、父の景時、兄の源太景季、三郎景家も続いた。梶原の五百騎は大軍勢の中へ駆け入り、散々に戦って、わずか五十騎にまで討たれると、ざっと敵陣から引き上げて出てきた。ところがどうしたものか、その中に源太景季の姿が見えない。「源太はどうした、お前たち」と従者に尋ねると、「深入りして、お討たれになったようです」と答える。梶原景時はこれを聞いて、「この世に生きていようと思うのも子供のためだ。源太が討たれた上は、生きていても何の甲斐があろうか。引き返せ」と、再び敵陣の中へ駆け入ったのである。大声で、「昔、八幡殿*3が後三年の戦で、出羽国仙北郡の金沢の城*4を攻められた時、生年十六歳で先駆けをし、左の眼を甲の板に射つけられながら、その敵を矢で射落とし、後代に名を上げた鎌倉権五郎景正*5の末裔、梶原平三景時、一人当千の兵士であるぞ。我こそはと思う人々は、景時を討って平家の大将のお目にかけよ」と叫んで、梶原景時は駆け続けた。知盛卿の「梶原は東国で評判の兵士だぞ。逃がすな、討ち漏らすな」という命を受けて、平家方は梶原景時を大軍勢の中に取り囲んで攻めた。景時は自分自身の危険を顧みずに、まず源太はどこにいるかと、数万騎の軍勢の中を縦横無尽に駆け回っては探している。すると、源太は馬も射られ、徒歩で、二丈ほどもある崖を後ろにして、五人の敵に取り囲まれていた。従者二人を左右に立て、脇目も振らず命も惜しまず、甲を後方に傾けたまま、ここが最後と防ぎ戦っている。梶原景時はこれを見つけて、源太はまだ討たれていなかった、と急ぎ馬から飛び降りた。「景時が来たぞ。いいか源太、たとえ死ぬとしても、敵に後ろを見せるな」と言うと、親子で五人の敵のうち三人を討ち取り、二人に傷を負わせたのである。景時は「武士は、進むも退くも状況次第だ。さあ来い源太」と言って、源太を抱えるようにして引き上げた。梶原景時の「二度の駆け」とは、この事である。

*1:にどのかけ

*2:武士が先祖から相伝した梓の木で作った弓は、一度放ったならば二度と戻ってはこない(私も一度進み出た上は、どうして引き返す事ができようか)

*3:八幡太郎源義家

*4:秋田県横手市金沢本町に遺跡がある

*5:桓武平氏高望王の末裔である鎌倉権守景成の子