「自分」を捨てること2

「この世はただ、心の持ち方一つにかかっている」
 この言葉を、近頃は特に身に染みて感じる。鴨長明方丈記にも「三界はただ心一つなり」とあるように、もともとは仏の教えの一つだそうだ。
 日々の生活も、心の持ちようでずいぶんと変ってくるものだ。例えば家事をするにしても、「相手のこと」を思えば清々しい気持ちで取り組むことができる。外で仕事をしてくれている夫が家に帰った時、快適に過ごせたらと思えば、掃除一つにしても身が入る。
 だが、もし「自分のこと」を思ったならば、不満の気持ちがあふれてくる。夫だけが外で仕事をしている、なぜ私は家事をするだけなのか、などなど。
 自分一人だけの成果や利益を思ったとたん、孤独になるのだ。安穏はどこにも見当たらず、あるのは焦り、寂しさといった安穏とは程遠い感情ばかり。これだけでも、「自分のこと」だけを思うことが幸せに結びつくとは思えない。
 努めて「人のため」に生きよう、そう思うようになった。若い頃は空空しい思いで眺めていた言葉だった。
「人のため」を思って行動する時、それは自然の中にいる時のあの感覚を思い出させる。少しも孤独ではなく、すべてがつながっていて自分がその一部でしかないという感覚である。
 実は私には手本となる人物がいる。夫の母は自分の利益など微塵も思わず、他人のためにせっせと動く人だ。「人のため」と言いながら見返りを期待し、実際のところは「自分のため」にすべてを行っているという人もいるが、母はもちろんそうではない。恥ずかしいことに、私は当初、そんな母を信じがたい思いで見ていた。
 ところで、幸田露伴の「努力論」に以下のような記述がある。

他人によって自己を新になそうとしたらば、昨日の自己は捨ててしまわねばならぬのである。他人によって新しい自己を造ろうと思いながら、やはり自己は昨日の自己同様の感情や習慣を保存して、内々一家の見識なぞを立てて居たいと思うならば、それは当面の矛盾であるからして、何らの益を生じないばかりでなく、かえって相互に無益の煩労を起す基である。それほど自己に執着して居る位に自己を好い物に思って居るならば、他人に寄る事も要らないから自己で独立して居て、そして従来の自己通りの状態や運命を持続して、自ら可なりとして居るのがよいのである。
――「自己の革新」努力論 (岩波文庫) 幸田露伴 より

氏はここでは、「他人(自己がそうありたいと望むような人)」に学ぶことについて述べているのだが、「自己」への執着が大きな問題だと気付きながらも、なかなかそれを捨てることができずにいた私のような人間には、頭を殴られたような衝撃があった。
 私には、「自分のため」ではなく「人のため」に生きることが当たり前になるまで、努力することしかないのだと思う。その先のことは、その時になれば自ずとわかるだろう。身近な母の存在がどれほど励みになるか。私は恵まれている。