平家物語を読む89

桜

巻第六 廻文*1

 清盛公はこのようなひどく思いやりのない振る舞いも、さすがに度が過ぎたと思ったのだろう、後白河法皇をお慰めしようと、安芸の厳島の内侍との間に生まれ十八歳になった艶やかな娘*2を、法皇のもとへと置くことにした。二位・三位の典侍や大臣・公卿の娘など身分の高い女官たちがたくさん選ばれて、これに伴った。多くの公卿・殿上人もお供の行列に加わったため、まるで女御が入内するかのような様子であった。高倉上皇がお亡くなりになって、まだ十四日にもならないというのに、このような事はふさわしくないのでは、と人々は裏でささやき合った。
 さてその頃、信濃国に木曾冠者・義仲という源氏がいるという噂が聞かれるようになった。故六条判官・源為義*3の次男である故帯刀先生・義賢*4の子である。父の義賢は、久寿二年八月十六日に鎌倉の源義平*5によって倒された。母はその時二歳だった義仲をかかえて、泣きながら信濃へ向かった。中原兼遠*6のもとへ行って「この子をどのようにしてでも育て上げて、一人前にしてください」と言うと、兼遠は受け取って骨身を惜しまずに二十年、養育した。成長するにつれ、義仲は力も人に勝るほど強くなり、気性も人に負けないほど激しくなった。人々は「類まれに見る強い弓を見事に的中させる射手で、馬上で戦っても徒歩で戦っても、坂上田村麻呂藤原利仁平維茂平致頼藤原保昌という古の武勇の誉れ高き武人や、先祖の源頼光・義家が、これに勝るとは思えない」と言い合った。
 ある時、義仲が養父の兼遠を呼んで「兵衛佐・頼朝は既に謀反を起こし、東八ヶ国を討ち従え、東海道から都へ上り平家を滅ぼそうとしている。この義仲も、東山・北陸の両道を従えて、一日でも早く平家を攻め落とし、てっとり早く言えば頼朝と共に、日本国で二人の将軍と言われたいものだ」というような事をそれとなく言うと、兼遠は非常に喜び賛成した。「そのためにこそ、あなたを今まで養育してきたのです。このようにおっしゃるとは、本当にあなたは八幡太郎・義家殿の子孫と思われます」と言い、すぐに義仲は謀反を企てたという。
 義仲は兼遠に連れ立ってよく都へと上り、平家の人々の振る舞いや様子をうかがっていた。十三歳で元服する時には、石清水八幡宮へ参詣し、八幡大菩薩の前で「私の四代の祖父・義家朝臣は、この御神の御子となって、名を八幡太郎と称した*7。ここで元服をするのは、一つには武勇に優れた先祖である八幡太郎にあやかりたいためだ」と、八幡大菩薩の前で髪を束ねて結い、名を木曾次郎義仲と称したのであった。兼遠は「まず、廻らし文*8をするのがいい」と言い、信濃国では根井小弥太*9・海野行親*10に企てを持ち掛けて仲間に引き入れた。これを始めとして、信濃国の兵士たちはすべてが従い、なびかないものは草木にもないほどであった。上野国では、故帯刀先生・義賢の縁で、多胡郡の兵士たちが皆、従った。平家の運が尽きようとしている機会をねらって、源氏は再興という長年の願いを遂げようとしていた。

*1:めぐらしぶみ

*2:入内後は冷泉局といった

*3:ためよし

*4:よしかた:義朝の弟に当たる

*5:義朝の長男で、十五歳で叔父の義賢を討った

*6:木曾の豪族

*7:尊卑分脈には、父である頼義が石清水八幡に参詣し、霊夢のお告げによって義家を授かり、その縁で義家は八歳の時に八幡で元服し、八幡太郎と称したとある

*8:宛名を連名にして、順次回覧する文書

*9:ねのいのこやた:信濃国佐久郡根々井の住人

*10:うんののゆきちか:信濃国小県郡海野の住人