平家物語を読む88

巻第六 小督*1

 高倉天皇は葵前へのどうする事もできない思いに、沈みがちでいらっしゃった。何とかお慰めしようと、中宮は小督殿という女房を天皇のお側に置かれた。この小督殿は中納言・藤原成範*2の娘であり、宮中一の美人で、琴の名手であった。実はこの小督殿は、冷泉大納言・藤原隆房*3卿がまだ少将であった時に見初めた女房であった。隆房卿が歌を詠み、文を送り、その恋心を伝えても、小督殿は一向になびく気配はなかったが、そのうちやはり情が動いたのであろうか、ついには隆房卿の気持ちに答えたのであった。だが今は、天皇に召されるとあってどうしようもなく、名残尽きない別れの悲しさに、袖を涙で濡らすばかりであった。隆房卿は外からでも小督殿の姿を見たいと、常に御所を訪れるほどである。小督殿がいる部屋の御簾の辺りを、あちらこちらと通り過ぎたり立ち止まったり、うろうろ歩き回ったが、小督殿は「天皇に召された上は、少将がどんなに望んでも言葉を交わしたり文を受け取り読む訳にはいかない」と、人づてに愛情を示すような事もなかった。隆房卿はもしかして返事がもらえるかもしれないと、歌を一首詠んで、小督殿のいる御簾の中へ投げ入れた。
   おもひかねこゝろはそらにみちのくの千賀のしほがまちかきかひなし*4
小督殿はすぐにでも返事をしたいと思ったが、天皇に対して後ろめたく思ったのだろう、手に取って見る事もせず、宮中に仕える少女にその文を取らせて中庭へと投げ返させた。隆房卿は恨めしかったが、誰かに見られては大変と思い、急いでこの文を拾って懐に入れると、その場から立ち去ろうとした。それでもまだ振り返って、こう詠んだ。
   たまづさを今は手にだにとらじとやさこそ心におもひすつとも*5
今のこの世では再び会う事も難しいのであれば、生きてその思いに苦しむより、いっそのこと死んだ方がいい、隆房卿はそう願った。
 この事が清盛公の耳に入った。高倉天皇中宮は清盛公の娘で、隆房卿も四女の婿である。小督殿に二人の婿を取られたと、「ああ、小督がいる限り、夫婦仲がうまくいく事はないだろう。連れ出して亡き者にしてしまえ」と言った。これをどこからか耳にした小督殿は「私の事はどうでも構わないが、天皇の事を思うと心が苦しい」と、ある日の夕暮れに内裏を出て、どこかへと姿を消してしまった。高倉天皇のお嘆きは並々ではなかった。昼は寝所にこもられて涙を流され、夜は紫宸殿で月の光を眺めては心を慰められていた。清盛公はこれを聞いて、「天皇は小督のせいで思い煩われているのか。それならばこちらにも考えがある」と、天皇の身辺の世話をする女房たちを行かせようとはせず、臣下が宮中に行く事も邪魔をした。よって清盛公の権威を恐れて御所を訪れる人もいなくなり、宮中には陰気な空気が漂った。
 そうしているうちに八月も十日ほどが過ぎた。空は見事に晴れ渡っているが、天皇の目は涙に曇り、月の光さえもぼんやりと映るほどであった。いくらか夜が更けてから、「誰かいるか、誰か」と呼ばれたが、答える者はいない。と、その夜ちょうど宿直に来ていた弾正小弼・源仲国*6がはるか遠くの下座から「仲国がございます」と答えた。天皇は「近くへ参れ。申し付けたい事がある」とおっしゃる。何事だろうと近くへ進むと、天皇は続けておっしゃった。「お前はひょっとして、小督の行方を知っているか」「どうして知っている事があるでしょうか。決して知りません」「本当だろうか、小督は嵯峨の辺りの片戸の家にいると言っている者もいるのだ。主人の名は知らないが、探し出して連れ戻してはくれないか」仲国が「主人の名がわからなければ、どのようにして探し出せばいいのでしょうか」と言うと、天皇は「本当にその通りだ」とおっしゃって、涙を流される。仲国は考えを巡らしているうちに、「そういえば、小督殿は琴の名手であった。この月の美しい夜に、天皇を思い出されて琴を弾くという事があるかもしれない。御所で琴を弾かれた際には、この仲国が笛の役に呼ばれていたので、その琴の音はどこからでもすぐに聞き分けられるはずだ。それに嵯峨に民家はそれほどある訳ではない。尋ね回っているうちに、何とか琴の音を聞くと事ができるのではないだろうか」と思いついた。「そうでしたら、主人の名はわからなくとも、もしかして会えないかと尋ね回ってみましょう。ただ、尋ねるにも、天皇のお文をいただかない事には、根拠のない事だと思われてしまうかもしれません。お文をいただいた上で、出かけましょう」仲国がこうと言うと、天皇は「その通りだ」と、文を書いて渡された。「馬寮の官馬に乗っていけ」という天皇の言葉に従って、仲国は官馬にまたがりどこというあてもなく月夜の下を駆けて行った。
 「をしか鳴くこの山里*7」と歌に詠まれるように、嵯峨の秋の夕暮れは一層もの悲しく感じられる。片戸の家を見つけては、ここにいらっしゃるかもしれないと手綱を引いて馬を止めるが、琴を弾いている家はない。御堂などへ参られているかもしれないと、釈迦堂*8を始めにいくつも御堂を見て回ったが、小督殿に似た女房には会う事ができなかった。このまま虚しく帰るくらいなら、来ない方がまだよかったくらいであろう。ここからどこかへとさ迷ってしまいたいと思っても、どこもすべてが王地であり、身を隠すような宿もあるまい。仲国はどうしたものかと悩んだ。そういえば法輪寺*9がそう遠くない所にある、月の光に誘われて参詣されているという事もあるかもしれない。仲国はその方に向かって馬を歩かせ始めた。
 亀山*10近くまで来た時、松の林がある方から、かすかに琴の音が聞こえてきた。峰を渡る風か松に吹く風か、それとも探している人の琴の音かと、はっきりはしなかったが、馬を急がせて向かってみると、片戸の家の中で誰かが確かに琴を弾いていたのである。立ち止まって耳を澄ませると、決して聞き間違えるはずもない小督殿の琴の音色であった。曲は何であろうと思って聞くと、「夫を想って恋う」と読む「想夫恋*11という曲である。やはり思っていた通りだ、天皇の事を思い出されて、多くの曲の中からこの曲を弾かれているとは何とけなげな事か。心を動かされて、仲国は腰から横笛を取り出すと、少しの間吹き鳴らしてから門をとんとんと叩いた。するとすぐに琴の音は止まった。大声で「内裏からの使いでやって来た仲国と申します。どうか開けて下さい」と言って何度も門を叩くが、応答する人はいない。しばらくして中から人が近付いてくる音がしたので心待ちにしていると、錠をはずし少しだけ開けた門の間から、幼くてかわいらしい小柄な女房が顔を出した。「家をお間違えではないでしょうか。ここは内裏からのお使いがいらっしゃるような所ではございません」と言う。なまじっか返事をする事で、門を閉められ錠をかけられてはまずいだろうと思って、仲国は門を押し開けて中に入った。
 妻戸の外側の縁に座って、「どうしてこのような所にお住まいになっているのですか。天皇はあなたを思う余りにふさぎ込み、お命までも危ないように見えるほどなのです。根拠のない事を言っているとは思わないでください。ここに天皇のお文があります」と言うと、預かっていた文を取り出して先ほどの女房に取り次ぎを頼んだ。受け取った小督殿が開いてみると、それは本当に天皇のお文であった。小督殿はすぐに返事を書くと、女房装束を一つそえて返した*12。仲国は贈られた装束を肩にかけながらこう言った。「私は使いでやって来たので、返事をいただいた上はどうこう言うには及びませんが、内裏で琴を演奏なされていた頃、この仲国が笛の役に呼ばれ、心を尽くして任を果たした事をも、もうお忘れになってしまったのでしょうか。直接のことづけをいただけないまま帰らなければいけないのは、甚だ残念な事です」これを聞いて小督殿はもっともだと思ったのであろう、自ら返事をした。「あなたもお聞きになっているでしょう、清盛公が余りに恐ろしい事ばかりを言うと聞いたので、驚きあきれて内裏を逃げ出しました。ここはこのような場所ですので、琴などを弾く事もなかったのですが、このままここにいる訳にもいかないので、明日には大原の奥*13に発とうとしていたのです。そこで主人である女房が最後の夜を名残惜しんで『もう、夜も更けました。琴の音を聞くような人もいないでしょう』などと勧めるので、その通りと思い、やはり昔、宮中で弾いた琴も懐かしくて、こうして琴を弾いていましたところ、簡単に聞き付けられてしまいました」そう言って涙を流したので、仲国も涙を誘われた。少しして、仲国は涙をこらえて声を掛けた。「明日から大原の奥に向かわれるという事は、髪を下ろして尼になられるのでしょう。決して出家などなされてはいけません。そのような事をして天皇のお嘆きをどうなさるつもりですか。この家から小督殿をお出しするな」そうして、連れてきていた馬の世話をする役人や下役人などに家の守護をさせ、自身は馬に乗って内裏へと急ぎかえった。辺りがかすかに明るくなる頃だった。
 天皇は寝所でお休みになっているだろう、誰に取り次げばいいかと、仲国は馬をつなぎ、小督殿から贈られた女房装束を「馬形の障子*14」に投げ掛け、南殿の方へと向かった。すると高倉天皇はまだ昨夜と同じ場所に座っておられた。「秋は南に、春は北に向かう雁に、恋しい人への暑さ寒さを見舞う便りをことづける訳にもいかない。毎夜、東から西へと渡る月に、恋しい思いを託す事もできず、ただその思いを募らせるばかりである*15」と詩歌を吟唱していらっしゃるところに、仲国がさっとやって来た。小督殿の返事を受け取られた天皇は非常に感激なさって、「すぐ今夜、連れて参れ」とおっしゃった。仲国は清盛公の耳に入るのが恐ろしかったが、これも天皇のお言葉なので、牛飼い・牛・車などを立派に支度して、嵯峨へと向かった。小督殿は宮中へ行く事はできない訳をいろいろと言ったが、何とかなだめすかして車に乗せた。内裏では人目につかないような場所に隠され、天皇に毎夜、呼ばれるうちに姫宮*16を一人もうけた。この姫宮というのは、坊門の女院の事である。だが、清盛公がどこからか聞きつけたのだろう、「小督が消えたというのは、何の証拠もない嘘であった」と、小督殿を捕らえると、尼にして追放してしまった。小督殿の出家はもとからの望みであったとはいえ、二十三歳で心ならず尼になり、墨染めの衣を身にまとう姿に変わり果てたとは、痛ましい事である。その後は嵯峨の辺りに住んだ。このような事などもあって高倉上皇は病にかかられ、ついにお亡くなりになったのだとも聞く。
 後白河法皇は続く不幸を嘆かれていた。永万元年*17には第一御子の二条院が亡くなられ、安元二年*18の七月には御孫の六条院が亡くなられている。天に住むならば比翼の鳥、地に住むならば連理の枝になろうと、天の川の牽牛・織女の二星を指して夫婦の約束をなされた建春門院*19は、秋の頃に病にかかり、その命をお消しになった。年月が経っても、まるで昨日の別れのように思われて、いまだ涙も尽きずにいらっしゃったのに、治承四年五月には第二御子の以仁王*20がお討たれになった。現世・後生を頼みとする高倉上皇にまで、先立たれては、愚痴をこぼす事もできずにただただ涙を流されるばかりである。「悲しみの中で最も悲しいのは、老いて後に子に先立たれる事である。恨みの中で最も恨めしいのは、若くありながら親に先立つ事である」という、あの大江朝綱公が子息である澄明に先立たれた時に書いた言葉を、今こそ身に染みて感じられていた。そういう次第で、法華経を読む事も、真言密教の三つの修行も、怠らずに行われていた。天皇が喪に服する一年は、国中の人々がこれに従った。普段は華やかな衣服も、喪の色に変った事であろう。

*1:こごう

*2:しげのり:通憲(信西)の三男

*3:隆季の子

*4:余りに恋しさに心も上の空で、こうして近くまでやって来てしまいましたが、会えないのであればその甲斐もありません

*5:私の文を今では手に取ってもくれないのですか、そこまで思いを捨てたのだとしても文くらいは受け取ってくれてもいいのではないでしょうか

*6:宇多源氏

*7:「をしか鳴くこの山里のさがなれば悲しかりける秋の夕暮」藤原基俊家集より

*8:右京区嵯峨釈迦堂にある清涼寺の本堂

*9:西京区嵐山にある寺

*10:小倉山の東南、天竜寺の後ろにある丘の名

*11:そうふれん:もとは「相府蓮」で、晋の大臣が蓮を愛でたことによるものだったが、のちに「想夫憐」→「想夫恋」となった

*12:使者として来た者へは、女房装束など衣類を贈るのが例であり、贈られた者は肩に掛けるのが礼であった

*13:天台系の浄土寺院が散在し、遁世者の集まる大原別所があった

*14:清涼殿の西の渡殿に立てられているついたてで、馬の跳ねる様子が描かれている

*15:和漢朗詠集の大江朝綱・恋より

*16:範子内親王

*17:1165年

*18:1176年

*19:平時信の娘、滋子で、後白河天皇の女御として高倉天皇を生んだ

*20:高倉の宮