散る気

「気の持ちよう次第で人はいかにも明るくのびやかに生きられる」
これを聞いて、言葉では何とでも言える、と言いたくなる人もいるかもしれない。だが実際はそんなに簡単なものではないのだ、と。
沈鬱にすっかり慣れ親しんでしまった人には、この言葉が虚しく響くだけなのだろうか。

実は、上記の言葉は幸田露伴のものである。露伴は「努力論」で、明るくのびやかに生きるにはどうすればよいかを説いている。
はっとさせられる箇所があった。
「気の散るのは実に好ましからぬ事である」
私が日々、どこか安定しない心持ちで過ごしているのも、この「散る気」のせいではないかと思い当たった。以下に一部を引用。

元来散る気は、為すべきことを為さず、思うべき事を思わずして、為すべからざることを為し、思うべからざる事を思うところから生じて散乱するのであるから、先ず能く心を治め意を固くして、思うべきところを思い、為すべきところを為さんと決定し決行するのが、第一着手のところである。――途中略――
そして一着一着に全気で事を為す習を付けるのが肝要である。二ツも三ツも為さねばならぬ事があったらば、その中の最も早く為し終り得べき、かつ最も早く為さねばならぬ事を択みて、自分はこの事を為しながら死すべきなのであると構え込んで、ゆっくりと従事するのがよいので、そして実際寿命が尽きたらその事の半途で倒れても結構なのである。

思い返してみると、例え好きな趣味のことをするにせよ、それだけに集中して取り組んだことなど大人になってからはなかった。始終何かを気に病んでいる。これも自分の性質かと半ばあきらめかけていたが、この「散る気」に関する文を読んだとき、後ろ頭を殴られたような気がした。
よく考えてみると、すべてのことを常に頭の中に置いておく長所など、何もないことに気付く。その時々に取り組んでいることだけに集中しよう。そう思うだけでも、不思議とすがすがしい気持ちになった。

*引用はすべて、「静光動光」(努力論 (岩波文庫))より