徒然草を読む127

森

第百五十五段

 世間に順応して生きようとする人は、まず時機というものを知るべきである。事の順序がよくない時は、聞こえも悪く、気持ちにも沿わないので、その事は達成されない。そのような時機を心得ておくべきである。ただし、病にかかかる事、子を産む事、死ぬ事だけは、時機を考慮する事はできないし、順序が悪いからと止める事もできない。生・住・異・滅*1と移り変わるあらゆる現象において、本当に大事なことは、荒々しい河の流れのようなものである。少しも滞る事なく、次々と新たな事が起こっていく。そうであるので、仏教修行においても世間においても、必ず遂げようと思っている事には、時機を窺ってはならない。何やかやとためらって、足を踏みとどめてはならない。
 春が過ぎて後、夏になり、夏が終わって後、秋が来るのではない。春は程なく夏の気配を催し、夏の間から既に秋は訪れ始め、秋になるとすぐに寒さがやって来て、そうかと思えば十月には小春の天気となり、草は青く、梅もつぼみを付ける。木の葉が落ちるのも、落ちて後新しい芽が顔を出すのではなく、下から出ようとする芽の力に耐えられずに葉は落ちるのである。芽は葉が落ちる時機をまだかまだかと待っているので、交替の順序が実に速いのである。生・老・病・死の移り変わりは、これよりも更に速い。四季にはそれでも、定まった順序があるが、死期には決まった順序がない。死は前からやって来るものとは限らない。いつしか背後に迫っているものなのである。人は皆、死ぬ事を知っていながら、待ち構える事はしていない。そういう時に、死は不意にやって来る。沖の干潟をはるかに眺めながら潮が満ちるのを待っているが、潮とは磯から満ちる。死もまたそういうものなのだ。

*1:ものが生じ、ある時間存続し、その間に絶えず変化し、やがて滅びること