徒然草を読む89

第百八段

 寸陰を惜しむ人はいない。これは、惜しむ必要がないとよく分かっているからなのか、それとも惜しむべきだという事が分からないほど愚かであるからなのか。愚かであるゆえ油断している人のために言えば、一銭は少なくとも、これを重ねれば、貧しい人は富める人になる事ができる。そうであるから、商人が一銭の金を惜しむ心というのは、切実なのである。一瞬一瞬は自覚できなくとも、これが留まる事なく積み重なれば、命を終える最期の瞬間がすぐに訪れる。
 よって、修行者は長く続くものとして月日を惜しんではならない。ただこの瞬間の意識が、空しく過ぎてしまう事を惜しむべきである。もし、誰かがやって来て、私の命は明日に必ず終わると知らせたならば、今日が終わるまでの間に、何を期待し、何をなそうとするであろうか。私たちが生きている今日の日というのも、まさにその日に異ならないのだ。一日のうちに、飲食・便通・睡眠・言語・行歩など、止められない事で、多くの時間を失う。その余りの時間がほとんどない中で、無益の事をして、無益の事を言い、無益の事を考えて時を過ごすだけに留まらず、そうして一日を終え、一月が過ぎ、一生を送る。何とも愚かな事である。
 謝霊運*1は、法華経の漢訳を筆記する役目を務めたが、心の中では常に風や雲などの事を思い楽しんでいたので、恵遠*2は自身が結成した白蓮社*3への交わりを許さなかった。一時的にでも寸陰を惜しんでなすべき事に集中する心がないのならば、死人と同じである。時間を何のために惜しむのかといえば、心の中では思い煩う事をせず、外では世間の俗事がないようにし、悪行を止めようと思う人は止め、善行をなそうとする人はなせという事のためである*4

*1:しゃれいうん:中国六朝時代の宋の詩人

*2:えおん:東晋の高僧

*3:念仏修行により浄土への往生を期待した

*4:仏教でいう「止悪修善」