徒然草を読む69

第八十五段

 人の心は純粋なものではないので、偽りがないとは限らない。とはいえ、まれに、純粋な心を持ち、少しも偽りがないという人もいるであろう。自身の心が純粋ではないのに、賢い他人を見てうらやましく思うというのは、世の常である。最も愚かな人は、たまにいる賢い人を見て、これを憎む。「小さな利益を受けようとしないのは、もっと大きな利益を得ようとしているからであり、自身を偽りで飾って名声を立てようとしている」と非難するのだ。己の愚かな心とは違えているのでこのように嘲るのだが、すぐに分かってしまう、この人は、生まれつき最も愚かであるというその性質が変わる事はなく、他人を偽っても小さな利益を辞退する事ができず、ほんの一時も賢人の行いをまねする事ができないのだと。
 狂人のまねだと大路を走れば、それはすなわち狂人である。悪人のまねだと人を殺せば、悪人である。駿足の馬をまねるのはやはり駿足の馬であり、舜をまねようとするのは舜の仲間である。たとえ偽ってでも賢なる所を学ぼうとするなら、その人は賢人と呼ばれるに値するのではないか。