徒然草を読む47

第五十八段

 「求道心があるならば、住む所がどこであろうと関係あるまい。俗人に交わって暮していても、後世を願って修行することに何の困難があるだろうか」と言うのは、後世というものを何も分かっていない人である。本当に、この世をはかなみ、必ず、死んでは生まれ変わる苦しみの世界から脱しようと思っていながら、何の興があって、朝夕と主君に仕え、家庭を常に顧みるような仕事に打ち込んでいられるというのか。心とは人や物事とのかかわり合いによって移り変わるものであるから、静かでなければ、修行の道を歩むのは難しい。
 だがその能力は、昔の人には及ばない。たとえ山林に入ったとしても、飢えをしのぎ、嵐を防ぐ手立てがなければ生きていられない状態である上は、世間の名利を強く求めるような事も、場合によってはどうしてない事があろうか。だからといって、「世に背を向けた甲斐がない。その程度であるなら、どうして世を捨てたのか」などと言うのは、論外である。さすがに、一度、仏の道に入り世を離れた人は、たとえ何らかの望みはあるとしても、世間で栄えている人の貪欲とは似ても似つかない。紙で作った粗末な夜具、麻の衣、鉢一杯分の食べ物、あかざ*1で作った吸い物が、どれだけ他人の物を費やすというのか。必要なものは得やすく、その心はすぐに満ち足りるであろう。とはいえ、自分の姿に恥じるところもあるので、俗人と同じような欲を起こす事があるにしても、修行にとっての悪からは遠ざかり、善には近づく事の方がずっと多い。
 人として生まれたからには、何とかして俗世間を離れ仏の道に入る、そうありたいものである。やたらと世間の名利を得る事ばかりを求めて、悟りの道に赴かないのは、すべての畜生と何ら変わるところがないのではないか。

*1:野草の一種