徒然草を読む15

White-breasted Nuthatch

第十九段

 季節が移り変わっていく様子には、事につけて心がひかれるものだ。
 「もののあわれが最も勝っているのは秋である*1」と人がよく言うように、それももっともだとは思うが、より一層心を浮き立たせるのは、春の景色であろう。鳥の声などもとりわけ春めく、のどかな日の光の下、垣根の草が芽生える頃には、春もやや深く、空には霞がかかり、桜の花もそろそろ色めく気配。ところが折しも、雨・風が続き、何ともあわただしく花は散り去ってしまう。このように若葉が茂るまで、春は何事においても、ただ、心を悩ますものである。昔を思い出させるものとしては、夏の花橘が有名ではあるが*2、それでもなお、春の梅の匂いによってこそ、昔の事も、繰り返し恋しく思い出されるものだ。また、春の山吹の美しさ、藤の花房のおぼつかない様子など、すべてにおいて、春には思い捨てがたい事が多い。
 「四月の灌仏会*3の頃、賀茂神社の祭の頃、梢に涼しげに若葉が茂りゆく様子は、この世のはかなさにも、人を恋しく思う気持ちにも勝るものである」とおっしゃった人がいるが、本当にその通りである。五月の菖蒲の葉を屋根に葺く頃、稲の苗を田に植える頃、くいなが戸をたたくように鳴くのを聞くと、どことなく物寂しい気持ちにはならないだろうか。六月、粗末な家の軒先で夕顔が白い花を開き、蚊遣火*4がくすぶっているのも、趣がある。水無月*5もまた、いいものだ。
 七夕祭というのはしみじみとした趣がある。夜の寒さが少しづつ増すにつれ、雁の鳴く声が聞かれるようになり、萩の下葉が色づき始める頃には、早稲を刈り取って乾かす。このような仕事が集中するのは、秋に多い。また、野分の過ぎた後の朝というのはいいものだ。こうして言い続けてみると、すべてが源氏物語枕草子などに言い古されたことであるが、同じ事をまた、あらためて言ってはならないという訳ではあるまい。思っている事を言わずにいると腹が膨れるような気がするものだから*6、筆に任せつつ書いている。何の役にも立たない慰め事であり、その上破り捨てるつもりのものであるので、人の目に入れるほどの価値はない。
 さて、冬枯れの景色というのは、秋のそれに匹敵するものであろう。池の水際の草に紅葉が散り落ちる、霜がことに白い朝、遣水*7から霧が立っているのは趣がある。年も暮れに近付き、人がみな忙しそうにしている頃も、この上なくいいものだ。寒々しいため見る人もない澄み切った月が浮かぶ、二十日過ぎの空とは、物寂しいものである。仏名会*8、荷先使*9の出発なども、格別である。朝廷の諸儀式などが、春に向けてと重ねて執り行われる様子も、大層いい。追儺*10から四方拝*11へと続くのもまたいいものだ。大晦日の夜、ひどく暗い中で松明を灯して、夜中過ぎまで、人々が門をたたいて走り回り、何事であろうか、大仰にののしりながら、足が宙に浮くほどに走っているが、さすがにその音も静かになる明け方近くには、去り行く年が名残惜しくなるものだ。亡き人が来る夜だといって魂を祭るような風習は、近頃の都ではないが、東の方では、今も行われるという、趣のあることだ。
 こうして明けゆく空の景色は、昨日と違っているようには見えないが、それでも特別な心地がする。門松を立てて、華やかで喜ばしい様子の大路もまた、いいものである。

*1:拾遺集・巻九」に、「春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる」とある

*2:古今集・巻三」の「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」をふまえる

*3:かんぶつえ:陰暦四月八日、釈尊の降誕を祝して行われる法会で、御像に香水を注ぎかける

*4:かやりび:蚊を追い払うために焚く火

*5:みなづきばらえ:六月末日に行われる大祓の神事

*6:大鏡」の序に、「おぼしき事言はぬは、げにぞ、腹ふくるゝ心地しける」とあるのをふまえる

*7:やりみず:庭へ導き入れられた流れ

*8:ぶつみょうえ:その年の罪障に対する懺悔・滅罪を祈る法会で、陰暦十二月十九日から三日間、清涼殿で行われる

*9:のさきのつかい:諸国からの調物の初穂を奉幣するための勅使

*10:ついな:十二月三十一日の夜、宮中で行われる悪鬼払いの儀式

*11:しほうはい:元旦、天皇が清涼殿の東庭で、天地・四方・属星・山陵を拝し、五穀の豊穣などを祈る儀式