平家物語を読む190

巻第十二 六代被斬*1(一)

 さて、十四、五歳になった六代御前は、顔も姿もますます美しくなり、周囲が照り輝くほどであった。母親は「ああ、平家の世の中であったなら、今頃は近衛司になっているだろうに」と言ったが、余りに高望みな事であった。
 鎌倉殿は六代御前の事を常に気にしていて、機会あるごとに高雄の文覚へ「それはそうと、維盛卿の息子はどうされているか。昔、あなたが頼朝の人相を占われたように、朝敵を滅ぼし、戦に敗れた屈辱を晴らす事のできる人であるのか」と尋ねていた。文覚は「六代御前は極めて愚かな人でございますよ。ご安心してください」と答えていたが、鎌倉殿はそれでも納得がいかないようで「謀反を起こせば、あなたはすぐに味方をしようとするでしょう。ただし、この頼朝の目の黒いうちは、誰にも源氏を倒す事はできない。子孫の時代の事は分からないが」と言ったというから、不気味な事である。これを聞いた母親が「このままでは危険です。すぐに出家してください」と言ったので、文治五年の春、十六の頃、六代御前は美しい髪を肩の辺りで切りそろえ、柿色の衣・袴に笈*2などを準備して、文覚に暇を願い出ると修行に出た。斎藤五・六も同じ出で立ちでお供した。まず高野へ向かい、父・維盛卿に仏道発心の機縁を与えた滝口入道に会うと、父の出家の次第、臨終の様子を詳しく聞き、その跡を訪ねたいと熊野へ向かった。浜の宮の王子の前で、父の渡った「山なりの島」を眺めると渡りたく思えて仕方がなかったが、波風が強かったのでそうする事もできない。ただただ眺めながら、私の父はどこに沈まれたのだろうと、沖から寄せる白波にさえ尋ねてみたいと思うほどであった。波打ち際の砂を見ても、もしかしたら父の御骨かもしれないと心が引かれ、乾く間のない海人の衣のように涙で袖を濡らしている。渚に一晩とどまり、念仏を唱え、指の先で砂に仏の形を描き表した。夜が明けると、高僧を呼んで父のためと供養を行った。これらの仏教的な善行による功徳をすべて父の霊魂に向かって差し向け、亡き父に暇を告げつつ、泣く泣く都へ戻っていった。
 小松殿*3の子である丹後侍従・忠房は、屋島の戦を逃れて後、行方も分からなかったが、実は紀伊国の住人の湯浅権守・宗重を頼んで、湯浅の城*4にこもっていた。この事を聞いた平家に心を寄せている越中次郎兵衛・盛次、上総五郎兵衛・忠光と弟の悪七兵衛・景清、飛騨四郎兵衛以下の兵士たちが味方につくとの噂が流れると、伊賀・伊勢両国の住人たちが、我も我もと駆けつけてきた。極めて強い者たちが数百騎も立てこもっていると聞き、熊野別当湛増は、鎌倉殿から命を受け、両三月の間に八度攻め寄せて戦った。けれども城内の兵士たちが命を惜しまずにこれを防ぐので、毎回追い返されて、熊野の法師はことごとく討たれてしまった。熊野別当は鎌倉殿へ飛脚を用いて「当国の湯浅の戦の事ですが、両三月の間に八度攻め寄せて戦いましたが、城内の兵士どもが命を惜しまずにこれを防ごうとするので、毎回追い返され、敵を打ち負かす事ができません。近国二、三カ国を与えてくださったなら、攻め落とす事ができるでしょう」と伝えたが、鎌倉殿は「そのような事は、国の失費、人の煩いとなるだろう。立てこもっている凶徒は、きっと海や山の盗人であろう。山賊・海賊を厳しく警護して、城の口を固めて守るように」と言った。その通りにしたところ、なるほど後には一人の人間も残らなかった。鎌倉殿は計略として「小松殿の君達が、一人でも二人でも生き残っていられたならば、助けるように。なぜなら私が今あるのはひとえに、池の禅尼の使いとして、頼朝を流罪にするよう奔走してくださった内大臣・重盛公の恩によるものである」と言った。よって、丹後侍従・忠房は六波羅を自ら訪れ、名乗ったのである。すぐに忠房は関東へ連れて行かれた。対面した鎌倉殿が「都へお戻りください。都の片隅に心づもりをしている所がありますので」と、だまして都へ行かせ、後から人を追いかけさせて、瀬田川にかかる橋の辺りで切られたのだった。
 小松殿には六人の息子の他にも、末子となる土佐守・宗実という人がいた。三歳から大炊御門の左大臣藤原経宗卿の養子となっていたので、姓を改め一族とは縁を切っている。武芸の道は捨て、文筆だけをたしなみ、今年で十八歳になっていた。鎌倉殿から特に問いただされた事はなかったが、世の中に気兼ねした家から追い出され、前途を失った。東大寺の「大仏の聖」と呼ばれる俊乗房のもとを訪れ、「私は、小松内大臣の末子で、土佐守・宗実という者でございます。三歳から大炊御門の左大臣・経宗卿の養子となり、姓も改め平家とは他人となりました。武芸を捨て、文筆だけをたしなみ、今では十八歳になります。鎌倉殿から問いただされた事はございませんでしたが、世の中に気兼ねした家から追い出されたのでございます。御房、どうか弟子にしてください」と言って、自ら髪を切った。そして「それでもまだ、私をかくまう事が恐ろしいと思われるのならば、本当に罪が深いのかどうかを鎌倉へ確認して、もし罪が深いという事であれば、どこへでもやってください」と言うので、俊乗房は不憫に思い、出家させた。東大寺の油倉にしばらくおいて、関東へこの事を伝えた。「ともあれ対面した上で、どうするか決めよう。まずはこちらへ寄こしてください」と鎌倉殿が言うので、俊乗房は仕方なく宗実を関東へ送った。宗実は奈良を発った日より、飲食と名のつくものはすべて絶ち、湯水も喉へ入れていない。足柄峠を越えて関本*5という所で、ついに死んでしまった。「とても助かる見込みのない命であるから」と、このような事を決心したのは凄まじい事であった。

*1:ろくだいきられ

*2:おい:修験者が仏具・衣類・食器などを入れて背負う箱

*3:清盛の長男、重盛

*4:和歌山県有田郡湯浅町にあった湯浅党の本拠地

*5:現神奈川県南足柄市関本