平家物語を読む179

巻第十一 大臣殿被斬*1

 一方、鎌倉殿は宗盛公に対面していた。自身の座っている場所から中庭を一つ挟んだ向かい側の棟に宗盛公の座席を設け、鎌倉殿は簾越しに相手を見ていた。使者の比気藤四郎能員*2に「平家の人々に対して特別の恨みを持っているような事は決してありません。その上、池殿の尼御前*3がどのように言われたといっても、故清盛公のお許しがなければ、頼朝が助かるはずはありませんでした。流罪に刑が軽減されたのは、ひとえに清盛公のご恩によるものです。このため二十年以上も、特に何事もなく過ごして来ましたが、平家が朝敵となり、追討するようにとの後白河法皇の命を受けた上は、むやみにその命に背く訳にはいきませんので、どうする事もできませんでした。このようにお会いする事ができて、満足しています」と言ったので、能員はこの事を伝えようと、宗盛公のもとへ訪れたところ、宗盛公が恐れて居住まいを正したのは情けない事であった。国々の大名・小名が居並ぶ中には、都の者たちもたくさんいた。平家の家来であった者もいる。皆が軽蔑の思いを抱いて「居住まいを正したならば、命が助かるというのか。西国で最期を迎えるはずだった人が、生け捕りにされ、ここまで連れて来られたのも当然の事だ」と言った。が、涙を流す者もいた。その中には「『猛虎は深山にいる時は百獣を恐れ震わせるが、檻井の中に入ってしまうと尾を動かして食料を求める』というように、いかに勇猛な大将軍であっても、このような事になって後は、心が変わる事もあるのだから、宗盛公もそうでいらっしゃるに違いない」と言う者もいたという。
 さて、九郎大夫判官・義経が様々に釈明したにもかかわらず、梶原景時の告げ口により、鎌倉殿からはやはりはっきりとした返事はなかった。「早く都へ戻るように」と命じられたため、六月九日、義経は宗盛公父子を連れて、都への帰途についた。宗盛公は少しでも命のある日数が延びる事を、嬉しく思った。道中も、ここで処刑されるのでは、あそこでは、と常に心配しているうちに、いくつかの国や宿を通り過ぎた。尾張国に内海*4という所がある。ここは昔、平治の乱に敗れた左馬頭・源義朝が誅せられた所であったので、ここで殺されるに違いないと思っていたが、そこも通り過ぎたので、宗盛公には将来を期待する気持ちが少し生じてきた。「もしかしたら、命が助かるのではないか」と言ったというから、哀れな事である。息子の右衛門督・清宗は「どうして命が助かるはずがあるだろうか。このような暑い時期であるので、切った首が損なわれないように配慮して、都が近くなってから切ろうというのだろう」と思ったが、宗盛公がひどく心細く思っているのが気の毒で、そうは言わずにただ念仏を唱え続けた。
 旅も日数が重なれば、都に近付き、近江国の篠原宿*5に着いた。義経は情け深い人であったので、三日かかる道程に人を遣わせて、宗盛公父子に仏法を説かせるため、大原来迎院の本性房・湛豪*6という高徳の僧を招いた。宗盛公父子は、昨日までは同じ所に置かれていたのだが、今朝からは引き離されて別々の所に置かれていたので「さては、今日が最後なのだろう」と、この上なく心細い思いであった。宗盛公が涙をはらはらと流して「一体、清宗はどこにいるのでしょうか。手を取り合ってでも死んで、たとえ首が落ちたとしても、胴体は同じむしろの上に横たわりたいと思っているのに、生きながら別れてしまうとは悲しくて仕方がありません。十七年間、片時も離れる事はありませんでした。海底に沈まずに、悪い評判を流すのも、あの清宗を思っての事なのです」と言うので、湛豪も気の毒に思ったが、自分までも心を弱らせてはならないと、涙をこらえ何気ない風を装うとこう言った。「今となっては、あれこれと清宗殿の事を考えなされますな。最期のご様子を清宗殿がご覧になれば、それこそ互いの悲しみが耐え難いものになるでしょう。この世に生を受けてより今まで、栄花を極めた方は昔でもその例は少ないものです。あなたは天皇の母方の親類であり、大臣の位にまで至られたのですから、今生の栄花はもう一つも残ってはいないでしょう。今、このような目に遭われているのも、前世における所業の報いなのです。世の中も人も、恨まれてはなりません。大梵天*7が宮殿で深い瞑想の境地に入られる時間も、思えば束の間の事です。ましてや稲妻や朝露のような人間界の命のはかなさは言うまでもありません。とう利天*8での一億千歳*9も、ただ夢のようなものです。三十九年を過ごされたといっても、それはわずか一時の事なのです。誰が不老不死の薬をなめたというのでしょうか。誰が東方朔と西王母*10のような命を保ったというのでしょうか。秦の始皇帝は贅沢を極めましたが、ついには麗山の墓に埋もれ、漢の武帝は命を惜しみながらも、虚しく茂陵の苔と朽ちたのです。『生ある者は必ず滅びる。釈尊も火葬の栴檀の煙を免れる事はできない。楽しみはいつか必ず尽きて、悲しみが来る。天人も臨終には五種の衰相が表れる*11』と聞いています。よって『我々の心は本来空であり、罪も福も心から起こる上はその主体などないのである。心をよく観れば心というものはなく、すべての法もまた法として存在するものではない*12』と仏のおっしゃるように、善も悪も実体はないとするのが、まさしく仏の心に寄り添う事であります。阿弥陀如来は五劫という長い間、思索されて、衆生救済という起こし難い願いを起こされたというのに、我々が億万劫もの長い間、生死の輪廻を繰り返し、宝の山に入っても何も手にする事なく帰るような事をしているのは一体どういう事でありましょう。これは恨めしいどころではなく、愚かの中でも最も愚かで悔しい事ではありませんか。決して、浄土を願う以外の雑念を起こしてはなりません」こう言うと、湛豪は宗盛公に仏の定めた戒律を授け、念仏を唱えるようにと促した。宗盛公も、今にふさわしい仏道への導きだと思い、邪念をたちまち翻すと、西に向かって手を合わせ、声高く念仏を唱えた。そこへ、橘右馬允公長が太刀を体に引き寄せて、左側から宗盛公の後ろに立ち回り、今にも切ろうとしたところ、宗盛公が念仏を唱えるのを止めて「清宗も既にか」と言ったのは哀れな事であった。首は前に落ちた。湛豪も涙に咽んだ。勇猛な武士でさえも気の毒だと思わない者はいない。そうであるのに、この公長というのは、平家に代々仕える家来であり、故知盛卿のもとで朝夕仕えた侍であった。「いくら世の中にへつらうのが常とは言いながら、まったくもって情けない事だ」と、人々は皆情けない思いだった。
 その後、右衛門督・清宗にも、湛豪が同じように仏の定めた戒律を授けた。念仏を唱えるように促す。清宗が「宗盛殿の最期はどのようでいらっしゃいましたか」と尋ねたのは不憫であった。「立派な最期でいらっしゃいました。ご安心なさってください」と言うと、涙を流して喜び「今となっては、気がかりな事はない。それでは、早く」と言った。今度は堀弥太郎が切った。首は義経に渡され、都へ向かった。胴体は公長の取り計らいという事で、父子で同じ穴に埋められた。あれほど息子への愛情を断ち切れず、離れ難いと言っていたので、このようにしたのだと聞く。
 六月二十三日、大臣・宗盛公父子の首が都へ入った。検非違使庁の役人たちが三条河原に出向いてこれを受け取り、都の大路を引き回して、左獄の門前にあるおうちの木*13に掛けた。三位以上の人の首が大路を引き回され獄門に掛けられる事は、異国ではその例もあるかもしれないが、我が国ではこれまで前例を聞いた事がない。例えば平治の乱の首謀者である藤原信頼*14は、あれ程の悪事を行ったので首をはねられたが、それでも獄門に首が掛けられる事はなかった。平家に限って、首が掛けられたのである。西国から戻っては、生きたまま六条を東へ引き回され、東国から帰っては、死んで三条を西へ引き回される。生きての恥、死んでの恥、いずれも劣る事ないほどの恥であった。

*1:おおいとのきられ

*2:よしかず:頼朝の乳母・比企尼の甥であり、養子になった

*3:平忠盛の後妻で、平治の乱で捕らえられた頼朝の助命に奔走した

*4:うつみ:現愛知県知多郡南知多町内海

*5:滋賀県野洲野洲

*6:たんごう

*7:色界十八天の一つである初禅天の主

*8:欲界六天の第二の天

*9:とう利天にある帝釈天の宮殿に住む者は人間界の百年を一日として、千年の寿命を保つという

*10:共に、不老長寿の神仙として知られた

*11:和漢朗詠集・無常・大江朝綱

*12:「我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法」

*13:栴檀の別名

*14:のぶより