平家物語を読む170

巻第十一 先帝身投*1

 源氏の兵士たちは既に平家の船に乗り移り、水夫・舵取りをどんどん射殺したり、切り殺したりしている。船を立て直す事ができないまま、水夫・舵取りは船底に倒れ伏すばかりだった。新中納言・知盛卿は小舟に乗って安徳天皇の御所となっている船へ向かった。「平家の世は、もうこれまでと思われます。見苦しいであろう物は、すべて海へ投げ入れてください」と言うと、自身は船首から船尾まで走り回り、掃いたり拭いたり、塵を拾ったりと、掃除を始めた。女房たちが「知盛殿、戦は一体どうなっているのですか」と口々に問うと、「珍しい東国の男をお知りになる身となるでしょう」と、からからと笑ったので、「何という、このような時に悪い冗談を」と、女房たちは皆が叫んだ。
 二位殿はこの様子を見て、日頃から覚悟していた事であるので、濃いねずみ色の衣をかぶり、袴の裾をたくし上げ、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉*2を脇に挟み、やはり三種の神器の一つである草薙剣*3を腰にさすと、安徳天皇を抱き上げた。「私は女でありますが、敵の手には決してかかりません。君主のお供をいたします。君主に真心を尽くそうと思う人々は、すぐに続きなさい」そう言うと、船端へ歩み出た。安徳天皇は今年八歳、年の程よりはるかに大人びていらっしゃり、容姿もたいそう美しく、辺りが照り輝くほどである。黒く豊かな髪が背中でゆらゆらと揺れていた。あきれたご様子で「尼御前、私をどこへ連れて行こうとするのか」とおっしゃるので、二位殿はこのあどけない君主に向かって、涙をこらえ口を開いた。「君主はまだご存知ではありませんか。前世で十の善行を修められた功徳により、今は天子としてお生まれになりましたが、悪縁に影響されて、その御運は既に尽きようとしているのです。まず東に向かって伊勢大神宮にお暇を申され、その後、西方の極楽浄土からのお迎えに預かれますよう、西に向かって念仏をお唱えください。この国は『粟散辺地*4』といって、辛く苦しい境涯でありますので、『極楽浄土』という、めでたい所へお連れするのですよ」これをお聞きになった安徳天皇は、山鳩色の衣を身にまとい、髪を左右に分けて束ねられた。涙でお顔を濡らし、小さな美しい手を合わせると、まず東を拝み、伊勢大神宮にお暇を申され、その後は西に向かって念仏を唱えられた。よって二位殿はすぐに安徳天皇を抱き上げ、「波の下にも都がありますよ」とお慰めすると、深い海の底へと入ったのだった。
 悲しい事に、無常の春の風はたちまちに美しい花のお姿を散らし、非情な事に、分段生死の掟*5の波は玉体を沈めた。宮殿には長生と名付け、長き住処と定め、皇居の門は不老と呼んで、いつまでも老いないようにと願ったが、まだ十歳にもならないうちに、海底を漂う屑となられたのである。この世に天皇としてお生まれになった幸運は、とても言い切れるものではない。雲上の竜が海に入り、魚となられたのだ。大梵天*6の住む高台にある宮殿のような皇居、帝釈天の住む須弥山にある城のような宮廷で過ごされ、昔は太政大臣左大臣・右大臣から三位以上の高官まで、平家一門の九代の親族を従えられたが、今は船の中から波の下にお命を一瞬にして滅ぼされたとは悲しい事であった。

*1:せんていみなげ

*2:やさかにのまがたま

*3:くさなぎのつるぎ

*4:そくさむへんじ:日本のこと

*5:人間は六道に輪廻し、業因によって寿命の長短、身体の大小の檀別があるとされた

*6:色界十八天の初禅天の王