巻第十一 能登殿最期*1
安徳天皇の生母である建礼門院は、この様子をご覧になって、温石*2・硯を左右の懐に入れると、海へ入られた。これを、源氏方の渡辺党の源五馬允・昵*3が、誰とも知らずに、髪に熊手を掛けて引き上げた。平家の女房たちが「ああ、何という事を。あれは女院でいらっしゃるというのに」と口々に言うのを聞き、大将軍の義経に許可を得て、急ぎ御所の船へお戻ししたのだった。大納言佐殿*4は、三種の神器の最後の一つである八咫鏡*5を収めた大陸風の櫃を持って、海へ入ろうとしたが、袴の裾を船端に射付けられ、裾が足にからまって倒れたところを、源氏の兵士たちによって止められた。さて源氏の兵士たちが、櫃の錠をねじ切って、今にもその蓋を開けようとすると、たちまち目がくらみ、鼻血が流れ出した。生け捕りにされていた大納言・時忠が「あれは三種の神器の一つ、八咫鏡であるぞ。並みの身分の者は見てはならないものだ」と言ったので、兵士たちは皆が退いた。その後、義経が時忠大納言に相談して、元の通りに収めたと聞く。
一方、中納言・教盛卿と修理大夫・経盛の兄弟は、鎧の上に船の碇を背負い、手を取り合って海へ入った。小松の新三位中将・資盛と少将・有盛、それに従兄弟の左馬頭・行盛も、手に手を取って、同じ場所に沈んだ。こうして平家の人々は次々に海へ入っていったが、大臣・宗盛公と清宗の父子は海に入ろうとする気配もなく、船端に立って四方を見回し、途方に暮れた様子でいる。平家の侍たちは余りの不甲斐なさに、そばを通り過ぎるふりをして宗盛公を海へ突き落とした。これを見た息子の清宗も、すぐに飛び込んだ。他の人々は皆、重い鎧を着ている上に、更に重い物を背負ったり抱いたりして海に入ったからこそ沈んだのであるが、この親子はそのような準備もない上に、なまじっか泳ぐのが上手であったので、沈む事もない。宗盛公は、清宗が沈んだなら自分も沈もう、助かったなら自分も助かろうと思っていた。清宗も、父が沈んだなら自分も沈もう、助かったなら自分も助かろうと思っていたので、二人は互いに目配せをしながら泳ぎ回っているうちに、小舟でつっと漕ぎ寄ってきた伊勢三郎義盛に、まず清宗が熊手で引き上げられた。これを見た宗盛公はいよいよ沈むのかと思えばそうでもない。よって同じように引き上げられたのだった。ここに宗盛公の乳母の子である飛騨三郎左衛門景経が小舟に乗って、伊勢三郎の舟に乗り移り「私の主君を捕まえたのは何者だ」と、太刀を抜いて走りかかった。伊勢三郎が危ないのを見て、伊勢の若い従者が、主君を討たせまいと間に割って入ったが、景経の太刀に甲の正面を打ち割られ、次に首を討ち落とされた。それでもまだ伊勢三郎が危ないのを見て、隣の船の中から、堀弥太郎親経*6が弓をよく引いて矢を射た。これに顔面を射られ、景経がひるんでいるところへ、堀弥太郎が舟に乗り移り、組み伏せた。主君に続いて堀の従者が舟に乗り移り、景経の鎧をめくり上げて、刀で二度刺した。飛騨三郎左衛門景経は力が強い勇敢な者として有名であったが、運が尽きたのだろう、深手を負ったし、敵は多い。ついにそこで討たれたのである。宗盛公は生きたまま捕らえられた。目の前で乳母の子が討たれるのを見て、一体どのような心地がしたであろう。
そもそも、能登守・教経が射る矢の飛んで来る先に身をさらす者はいなかった。矢を射尽くした教経は今日が最後と思ったのだろう、赤地の錦の衣に大陸伝来の綾織布で綴った鎧を着ていたが、いかめしく作られた大きめの太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、それらを左右に持ってなぎ払いながら回るので、面と向かって相手をしようとする者はいない。多くの者が討たれた。新中納言・知盛卿が使者を立てて「能登殿、あまり罪作りをなさるな。そのような事をするにふさわしい敵か」と伝えると、「それならば、大将軍と組み討ちしろという事だな」と心得て、太刀・長刀を短めに握り直し、源氏の船に乗り移ると、うめき叫んで戦った。大将軍の義経の顔を知らなかったので、立派な鎧をまとっている武者を義経かと目を掛けて迫った。義経もこれに気付いていて、正面に出るようにしていたのだが、うまい具合にやり過ごして能登守に組まれる事はなかった。けれどもどうしたはずみだろう、義経の船と能登守が乗り移った船とが行き合い、能登守は「あっ」と目を掛け、飛び掛ってきた。義経は敵わないと思ったのだろう、長刀を脇に挟み、二丈*7ほども離れているというのに、隣の味方の船にゆらりと飛び移った、能登守は敏捷な身のこなしが苦手であったのだろう、すぐに続いて飛ぶ事はしなかった。もはやこれまでと思ったので、太刀・長刀を海へ投げ入れると、甲も脱いで捨ててしまった。鎧の垂れの部分をかなぐり捨てて、胴部分だけを着ている。子供のようにばらばらの髪で、両手を大きく広げて立っていた。周りはその勢いに近寄る事もできないように見える。恐ろしいなどというものではない。能登守は大声で「我こそはと思う者どもは、この教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下って頼朝に会って、一言文句を言おうと思っている。寄れや、寄れ」と言ったが、寄る者は一人もいなかった。
ここに土佐国の住人で安芸郷*8の政務を執り行っていた安芸大領・実康の子で、安芸太郎実光という一人で三十人分の力を持つ者がいた。自分と少しも劣らない従者一人と、普通よりはずっと強い兵士である弟の次郎を従えている。安芸太郎は能登守を見すえて「どれほど勇ましくとも、我々三人が取り付いたなら、たとえ身の丈が十丈*9の鬼であっても、どうして屈しない事があろうか」と、三人で小舟に乗り込んだ。能登守の船に押し並べて「えい」と言って乗り移り、甲をかぶった頭を前に傾けて、太刀を抜いて横一列にならんで討ちかかった。能登守は少しも取り乱さず、真っ先に向かってきた安芸太郎の従者を足払いで海へどうと投げ入れた。続いて来る安芸太郎を左の脇に、弟の次郎を右の脇に挟み込み、一締めすると「さあ貴様たち、行くぞ。冥途の旅の供をせよ」と、生年二十六歳にて海へつっと入ったのだった。