平家物語を読む169

巻第十一 遠矢*1

 源氏の方の和田小太郎義盛*2は、船には乗らず、馬に乗って渚に控えていたが、甲を脱いで従者に持たせると、あぶみ置いた足を思い切り突っ張り、弓をよく引いて次々に矢を射た。三町*3前後にいる者なら、はずす事はなかった。その中でも特に遠くまで射たと思われる矢を、義盛は「その矢を返していただこう」との意で手招きした。新中納言・知盛卿がこれを持って来させて見てみると、白木のままの矢竹に根元が白く先が黒い鶴の羽と白鳥の羽とを交ぜ合わせてはいだ矢で、長さはこぶし十三と指幅二本、やじりよりこぶし一つほどの所に「和田小太郎義盛」と漆によって書かれていた。平家方に弓の名手は多いといっても、これほど遠くまで矢を射る者は少なかったのだろう、大分時間が経ってから、伊予国の住人・仁井紀四郎親清*4が呼び出され、この矢を射返した。これも沖から渚へ向かって三町ほどつっと渡り、和田小太郎の後一段*5ほどの所に控えていた三浦の石左近太郎の左の腕に深々と突き刺さった。三浦の住人たちはこれを見て、「自分以上に遠くまで矢を射る事ができる者はいないと言っていた和田小太郎が恥をかいたぞ。あれを見てみろ」と笑い合った。和田小太郎はこれを聞いて「我慢ならない事だ」と、小舟を漕ぎ出させ、海上に出た。舟の上から平家の軍勢に向かって次々に矢を射ると、たくさんの者たちが射殺されたり負傷したりした。また、義経の乗っている船に、沖から白木の大矢を一本射立てて、和田小太郎がやったように「こちらへ返していただこう」と手招きした者がいる。義経がこれを抜かせて見てみると、白木のままの竹に山鳥の尾羽ではいだ矢で、長さはこぶし十四と指幅三本、「伊予国住人仁井紀四郎親清」と書いてあった。義経が後藤兵衛実基を呼んで「この矢を射る事ができる者は、味方にいるか」と尋ねると、「甲斐源氏の阿佐里与一義成殿*6は弓の名手でいらっしゃいます」と答える。「それでは、呼べ」呼ばれて、阿佐里与一がやって来た。義経が「沖よりこの矢を射てきたのですが、射返せと言っています。あなたがやってはくださいませんか」と言うと、「矢を拝見しましょう」と、阿佐里は矢を受け取った。爪先でひねり回しながらよく調べ、「これは、矢竹が少し弱いようです。矢の長さも少し短いようです。どうせ射返すならば、この義成の矢でやってみましょう」と、藤つるを隙間なく巻いた上を漆で黒く塗り込めた、長さは九尺*7ほどの弓に、漆を塗った矢竹に黒いほろ羽ではいだ、長さは阿佐里の大きな手のこぶし十五こ分もある矢をしっかりあてがうと、よく引いてさっと放った。矢は優に四町を越えて、大船の舳先に立っている仁井紀四郎親清の胴体の真ん中をふつと射た。仁井は船底に倒れた。死んだかどうかは分からない。阿佐里与一はもともと強い弓を引く射手であり、二町先に走る鹿をはずさずに射ると聞く。その後、源平は互いに命を惜しまず、うめき叫んで戦った。どちらも劣っているようには見えない。けれども、平家の方には、安徳天皇三種の神器と共にいらっしゃるので、源氏は運に見放される事もあるのではと不安に思っていた。と、白雲かと思われるものが空に漂っている。しかし雲ではなかった。主人のない白旗が一つ舞い下りて来たのだ。それは源氏の船の舳先に旗竿の緒が触れるほどまで下りて来た。
 これを見た義経は「八幡大菩薩が現れなさったのに違いない」と喜び、手を洗い口をすすいでから拝した。兵士たちも同様にした。また源氏の方から、いるかという魚が一、二千匹、海面に口を出して息をしながら平家の方へ向かって泳いで行った。これを見た宗盛公は小博士・晴信*8を呼んで、「いるかがずい分たくさんいるが、このような事は今までにない。どういう事なのか占ってみよ」と言った。「このいるかが、同じように海面に口を出して息をしながら源氏の方へ泳ぎ戻ったならば、源氏は滅びるでしょう。まっすぐに通り過ぎたなら、味方は戦に負けるでしょう」と言い終わらないうちに、いるかの群れは平家の船の下をまっすぐに通り抜けて行った。「平家の世はこれまでか」と晴信はつぶやいた。
 阿波民部重能は、この三年の間、平家によくよく忠節を尽くし、度々の戦でも命を惜しまず戦ってきたが、息子の田内左衛門を生け捕りにされ、もうどしようもないと思ったのだろう、瞬く間に心変わりして、源氏の方についたのだった。平家の方では計略として、身分の高い人は兵船に、身分の低い人たちは大陸風の大型の船に乗せていた。大型の船に大将軍が乗っていると思い込んだ源氏が攻めて来たら、中に取り込めて討とうという魂胆である。しかし阿波重能が寝返ってから、源氏は大型の船には目もくれず、大将軍がみすぼらしく姿を変えて乗っている兵船を攻めた。知盛卿は「けしからん。重能め、切って捨てるべきであったものを」と、何度も後悔したがどうしようもなかった。
 そうしているうちに、四国・九州の兵士たちは皆が平家に背いて源氏の方についた。ついさっきまで従っていた者たちが、今では天皇に向かって弓を引き、主君に対して太刀を抜いている。あの岸に船を着けようとすれば、波が高くて思うようにならない。この波打ち際に船を寄せようとすれば、敵が矢先をそろえて待ち構えている。源平の政権争いは、今日が最後と思われた。

*1:とおや

*2:相模国三浦郡和田の住人

*3:一町は約109メートル

*4:ちかきよ:仁井は新居

*5:約2.7メートル

*6:阿佐里は浅利

*7:一尺は約30.3センチ

*8:はれのぶ