平家物語を読む150

巻第十 請文*1

 大臣・宗盛公と大納言・時忠卿のもとへ、後白河法皇の命の趣旨が伝えられた。母親である二位殿へは手紙が渡された。「もう一度、私にお会いになりたいと思われるのであれば、内侍所*2の事を、宗盛公によくよくお話しくださいませ。そうでなければ、この世ではもうお会いする事ができるとは思えません」などと書いてあった。二位殿はこれを見ると、何も言わずに手紙を懐に入れ、うつ伏してしまった。心の内はどれほどのものかと、推し量られて気の毒であった。
 そうしているうちに、時忠卿を始めとして、平家一門の公卿・殿上人が集まり、返答書の内容についての評議が行われた。二位殿は、重衡卿の手紙を顔に押し当てて、立ち並ぶ人々の後ろの障子を開けると、宗盛公の前に倒れ伏し、泣きながら言った。「あの重衡が都から手紙で言ってきた事は、何とも痛ましい。一体、心の内ではどれほどの思いでいる事でしょう。ただ私に免じて、内侍所を都へ返してください」宗盛公が「本当に宗盛もそのようには思いますが、それでは世間に対して体裁が悪すぎます。ひとつには、頼朝がどう思うかと考えると気がひけて、あれこれ考えずに内侍所を返す事はできないのです。その上、安徳天皇が帝位を維持されているのは、ひとえに内侍所がここにあるお陰なのです。親が子をいとしいと思うのも、時と場合によるものです。重衡一人のために、私の子たちや親しい人々を、引き換えにしようと思われるのですか」と言うと、二位殿は続けて言った。「清盛公に先立たれて後は、一時も生きているべきだと思った事はありませんでした。安徳天皇にこのようにいつ終るともわからない旅を続けさせてしまっている事は心苦しいのですが、再びあなたを世で栄えさせてあげたいなどと思えばこそ、今日まで生き永らえてきました。重衡が一の谷で生け捕りにされたと聞いてからは、生きた心地もしません。どうにかしてこの世でもう一度会いたいと思っても、夢でさえ会う事もできないので、なおさら胸がいっぱいになり、湯水も喉を通りません。今、この手紙を見て後は、益々悲しい気持ちを晴らす術もありません。重衡卿がこの世に亡き人となったと聞いたならば、私も同じ道に赴こうと思っています。二度と辛い思いをしないように、どうか私を殺してください」二位殿はうめき叫んだ。本当にそう思うのももっともだと余りに哀れで、人々は目をそらして涙を流した。新中納言・知盛卿が「三種の神器を都へ返したとしても、重衡を返してくれるとは限らない。返答書にはただ遠慮なく、内侍所と重衡の身を交換する事はできないと書くべきである」と自分の考えを述べると、宗盛公は「その意見がもっとも妥当であろう」と、返答書の内容を決めた。二位殿は泣きながら重衡卿への返事を書いた。涙にくれて筆先は乱れたが、親心に導かれ、いろいろと書いて、使者の重国に渡した。重衡卿の北の方・大納言佐殿はただ泣くばかりで、返事を書く事もできない。その心の内を思うと、余りに気の毒であった。重国も衣の袖を涙で濡らしながら、その場を去った。時忠卿は後白河法皇の使者である花形を呼んだ。「お前が花形か」「そうでございます」「法皇の使者として、多くの波路を越えてここまで来たのだから、一生涯の思い出のひとつも持つといいだろう」そう言って、時忠卿は花形の頬に、波の形の焼印を押した。都へ戻った花形をご覧になった法皇は、「よしよし、致し方ない。これからは『波形』という名で仕えさせよ」と、笑われたという。平家の返答書の内容は以下の通りである。
今月十四日の後白河法皇の文書は、同二十八日に、讃岐国屋島の磯に到来しました。これにより、この神器交換の件を考えてみましたが、通盛卿以下の当家の数人が、摂津国一の谷で既に成敗されているというのに、どうして重衡一人だけが罪を許される事を我々が喜ぶというのでしょうか。安徳天皇は、故高倉院の御子で、在位は既に四年、尭旬の善政を尋ね求めて政務を執られていましたが、東国と北国の蛮人が手を結び、群をなして都へ入ったため、安徳天皇とその母后・建礼門院のお嘆きは最も深く、また天皇外戚・近臣の憤りも並々でなかったので、しばらく九州へ移られました。都へお帰りにならない以上は、どうして三種の神器とお離れになる事があるでしょうか。臣は君を心とし、君は臣を体とする*3。君が心穏やかであれば、臣もそうであり、臣が心穏やかであれば、国もそうなる。君が上に憂えば、臣が下に楽しむ事はない。心中に愁いがあれば、体外に喜びはない。先祖である将軍・平貞盛は、相馬小次郎将門を追討してから、東八ヶ国を鎮めて子孫へと伝え、朝敵の計略巧みな臣を成敗して、何代にも渡り皇室の運勢をお守りしてきました。また、亡き父である太政大臣・清盛公は、保元・平治の戦の時、勅命を重んじて、自身の命を捧げました。ひとえに天皇のためであり、自身のためではありませんでした。中でも、あの頼朝は、平治元年十二月に、父である左馬頭・義朝の謀反によって、成敗するようにと何度も命が下りましたが、故清盛公が慈悲を持って取り成した事により、死罪を免れたのです。そうであるのに昔の広大な恩義を忘れ、親切な心も持たずに、たちまち非力な流人の身で無謀にも兵を上げたのです。愚かしい限りです。今にも」神々の天罰を招き、ひそかに大敗して従来の功績を失う事になるでしょう。太陽と月は一つの障害物によって、その明るさを失う事はありません。明王は一人のために、その法を曲げないのです。臣に一つの悪い所があるからといって、その他の善い所を忘れてはならず、些細な過ちがあるからといって、その他の功績に目をつぶってはならないのです。当家数代の奉公、亡き父の数度の忠節を、忘れずに覚えていてくださるのなら、法皇が四国へお越しになるべきでしょう。そうなさった時には、法皇の命を受け、我々は再び都に帰って源氏を討ち、会稽の恥をすすぎましょう。もしそうなさらないならば、安徳天皇と共に、鬼界・高麗・天竺・震旦*4に向かいます。安徳天皇の治世において、我が皇室の秘宝を、ついに虚しくも異国の宝をなさるおつもりでしょうか。これらの趣旨を、法皇のお耳にそっと入れてください。宗盛が恐れ謹んで申し上げます。
   寿永三年二月二十八日 従一位朝臣宗盛

*1:うけぶみ

*2:三種の神器のひとつ、八咫鏡

*3:臣軌・同体章による

*4:薩摩諸島・朝鮮・インド・中国