平家物語を読む137

巻第九 一二之懸*1

 二月六日の夜中まで、熊谷次郎直実・平山武者所季重は背面から攻める軍の中にいた。熊谷次郎が息子の小次郎直家を呼んで、「この軍は、全員が一団となって難所を駆け下りるだろうから、誰が先駆けという事もないだろう。さあお前、これから土肥次郎実平が命を受けて向っている播磨路へ我々も行って、一の谷の先駆けとなろう」と言うと、小次郎は「その通りでございます。直家もそう申し上げたいと思っておりました。それではすぐに向いましょう」と応じた。と、熊谷次郎は「そうだ、平山武者所季重もこの軍にいるぞ。あれも軍勢が一団となって敵中に討ち入るのを好まない者である。平山の様子を見て参れ」と、下人を行かせたのである。予想通り、平山は熊谷次郎より先に出発の準備を整えており、「他人はどうだか知らないが、この季重に限っては敵に対して一歩も引かないぞ」と独り言ちていた。下人が馬に草を食わせながら、「ゆっくり草を食うとは、憎い馬だ」と馬を打つと、平山は「そのような事をするな。その馬とも今夜限りだぞ」と言うや否や、その場を発った。下人は走り帰って、この事を熊谷次郎に伝えた。「やはりそうか」と、熊谷親子もすぐに出発した。熊谷次郎は濃紺の衣に、茜で染めた革で綴った鎧を着て、紅の母衣*2を背中に掛け、「権太栗毛*3」という評判の名馬に乗っている。息子の小次郎は、オモダカの葉の模様を薄く染めた衣に、白・薄青・紺に染めた革を波状に綴った鎧を着て、「西楼*4」という名の薄く赤味を帯びた白毛の馬に乗っている。旗持ちは、青味がかった黄色の衣に、萌黄に緑の小桜の模様の革で綴った鎧を着て、黄味の濃い白毛でたてがみと尾が黒く背に黒い筋のある馬に乗っている。一行は、これから駆け下りようとする谷を左手に見ながら馬を歩ませ、普段人が通わない田井の畑*5という道を経て、一の谷の波打ち際へ出た。まだ深夜である。土肥次郎実平は一の谷の近くの塩屋*6という所で、七千騎で控えている。熊谷次郎は夜の闇に紛れて、波打ち際をさっと通り抜けると、一の谷の西の木戸口に馬を寄せた。この時、まだ夜が深かったため、敵方も静まり返って音一つせず、味方の者も一騎も続いては来なかった。熊谷次郎は息子の小次郎を呼んで、「我こそは先駆けの功名を立てたいと思う人々は多いだろう。浅はかにも、この直実だけがそうだと思ってはならない。既にこの辺りで、夜が明けるのを待っているかもしれぬ。さあ、名乗りを上げよう」と言うと、垣根のように並べられた楯のそばに歩み寄り、大声で「武蔵国の住人、熊谷次郎直実、息子の小次郎直家、一の谷の先陣であるぞ」と名乗った。が、平家の方では、「よし、音を立てるな。敵の馬の足を疲れさせよ。矢種を尽きさせよ」と、相手になる者もいなかった。
 そうしているうちに、熊谷次郎の後ろに武者が一騎続いてやって来た。「誰だ」と尋ねると、「平山季重だ」と答える。「そして、そちらは」「熊谷直実である」「何と、熊谷殿はいつからこちらに」「直実は日が暮れてからだ」これを聞いて平山は言った。「季重もすぐに続くべきだったのですが、成田五郎にだまされて、今になってしまったのです。成田が死ぬならば同じ場所で死のうと約束したものだから、それならばと成田も連れて出発しようとすると、『平山殿、先駆けをしようと余り気をはやらせなさいますな。先駆けというのは、味方の軍勢を後ろに置いて駆ければこそ、高名も思わぬ失策も人に知ってもらえるというものです。ただ一騎で、大軍勢の中に駆け入って討たれては、何の甲斐があるというのでしょう』と、成田が制しました。それもそうだと思って、小坂があったのを先に上り、馬の頭を坂下に向けて手綱をさばき、味方の軍勢を待っていたところ、成田がやって来ました。馬を並べて戦の手順を相談するのかと思っていたところ、そうではなく、季重をすげなく一瞥しただけで、さっと追い抜いてしまったのです。何と、この者は私をだまして先駆けしようとしていると思い、五、六段*7ほど先を行く成田を、あいつの馬は我が馬より弱いと見込んで、一鞭打って馬を疾駆させ追いつきました。『卑怯にも、季重ほどの者をだまそうとは』と言って、置き去りにして来たので、はるか後方にいる事でしょう。もはや我々の後姿を見る事もできまい」
 熊谷・平山は五騎ほどで控えている。そのうち、東の空が少しづつ明け始めた。熊谷は先に名乗ったが、平山が聞いている所でもう一度名乗ろうを思ったのだろう、再び並べられた楯のそばに行き、大声で「以前に名乗った武蔵国の住人・熊谷次郎直実、息子の小次郎直家、一の谷の先陣であるぞ。我こそはと思う平家の侍は、直実と立ち向かって勝負せよ」とわめき立てた。これを聞いた平家の方は「さあ、夜通し名乗りを上げている熊谷親子を捕まえてこい」と、越中二郎兵衛盛継・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清。五藤内定経を始めとする主だった兵士たち二十騎ほどが、木戸を開いて駆け出た。ここに平山季重は、鹿の子絞りの衣に緋色の革で綴った鎧を着て、輪の中に二本の横線を引いた母衣を背中に掛け、「目糟毛*8」という評判の名馬に乗っている。旗持ちは、黒革で綴った鎧に、甲を目深にかぶり、赤褐色が混じった白毛の馬に乗っていた。平山は「保元・平治の合戦にて、先駆けした武蔵国の住人・平山武者所季重」と名乗ると、旗持ちと二騎、馬の鼻を並べてうめきながら駆け入った。熊谷が駆ければ平山が続き、平山が駆ければ熊谷が続く。互いに相手に劣るものかと、入れ替わり立ち替わり、火が出るほど激しく攻め立てる。平家の侍たちは、手厳しく攻められて敵わないと思ったのだろう、城の内へざっと退き、敵を城砦の外に置いて防いだ。熊谷次郎は馬の腹を射られ、馬が跳びはねたので、足をさっとはずして地面に降り立った。息子の小次郎も、「生年十六歳」と名乗って、垣根のように並べられた楯の端に、馬の鼻が付くほど攻め寄せて戦ったが、左腕を射られて、馬から飛び降りると父と並んで立っていた。「何と小次郎、怪我をしたか」「そうでございます」「常に鎧をゆすり上げて、隙間ができないようにせよ、隙間から矢で射抜かれるな。顔面を射られないように、頭を傾けよ」熊谷次郎は息子にこう教えると、鎧に刺さった矢とかなぐり捨てて、城の内をにらみつけ、大声でののしった。「去年の冬の頃に鎌倉を出た時から、この命を兵衛佐・頼朝殿に預け、屍を一の谷にさらそうと誓った直実であるぞ。室山・水島の二度の合戦で武功を上げたという越中次郎兵衛はいないか、上総五郎兵衛・悪七兵衛はいないか、能登守はいらっしゃらぬか。功名も、対戦する敵次第である。誰彼構わず戦ったからといって、得る事ができる訳ではない。直実に立ち向かって勝負せよ」これを聞いた越中次郎兵衛は、紺地の所々が濃くむらに染められた衣に、赤革で綴った鎧という好みの装束で、白味がかった葦毛の馬に乗って、熊谷次郎を目指して歩み出た。熊谷親子は、それぞれの間を敵に押し隔てられまいと立ち並んで、太刀を額に当てると、後ろへは一歩も引かずに、益々前へ前へと進み出る。越中次郎は敵わないと思ったのだろう、急いで引き返した。熊谷次郎がこれを見て、「何と、あれは越中次郎兵衛と思われるが。敵としてどこが不足か。この直実に馬を押し並べて組めや、組め」と言っても、越中次郎は「とんでもありません」と言って引き返してしまった。これを見た悪七兵衛が「あなた方の行動は見苦しいぞ」と、今にも駆け出ようとしたが、鎧の袖で「主君・能登守にとっての重大事は、この戦に限らない。もっての外だ」と制せられて、留まった。その後、熊谷は別の馬に乗り換えると、うめきながら駆け回った。熊谷親子が戦っている隙に馬を休めていた熊谷も、後に続いた。平家の方で、馬に乗っている武者は少なく、矢倉の上の兵士たちが矢先をそろえて雨のように射た。が、敵は少なく、味方は多い。大軍勢の中に紛れて、敵に矢を当てる事もできない。「馬を押し並べて組め」と命じたが、平家の馬は乗る事ばかり多く、飼い太らせる機会はあまりなかったのである。舟にも長い間、乗せられている。馬はまるで彫刻した作り物のように動かなくなってしまった。熊谷・平山の馬は飼い太らせた大きな馬である。一度体当たりをすれば、敵の馬は皆倒されてしまい、押し並べて組もうとする武者は一騎もいない。平山は、我が身に代えてまでと大事にしていた旗持ちを射られ、敵の中へ駆け入ると、すぐに矢を射た者の首を取って出てきた。熊谷も敵の首をたくさん取った。先に寄せたのは熊谷だったが、木戸が開かないので駆け入らなかった。平山は後から寄せたが、木戸が開いたので駆け入った。そのため後日、熊谷・平山の間でどちらが一番乗りか、二番乗りかと、言い争いが生じたのである。

*1:いちにのかけ

*2:ほろ:矢を防ぐために背負う防具

*3:ごんだくりげ:「盛衰記」によると、熊谷次郎の舎人・権太が、陸奥国一戸で求めたとあるが、上野国群馬郡の権田産の名馬という説もある

*4:せいろう:「盛衰記」によると、陸奥国三戸の名馬で、夜だけ仮屋の西の厩から出されるほど秘蔵だったため、その白さを月、西の厩を楼に見立てて名付けられたとある

*5:現神戸市須磨区多井畑

*6:現神戸市垂水区塩屋

*7:約15メートル

*8:めかすげ:「盛衰記」によると、武蔵国姉崎産の名馬で、左の目に傷があったという