平家物語を読む136

Great Blue Heron

巻第九 老馬

 平家の宗盛公は、安芸右馬助・能行を使者にして、平家の君達へ「九郎義経が、三草の平家の陣を攻め落として、今にも一の谷に乱入しようとしているという。山の方面が危険だ。それぞれが向うように」と伝えたが、皆がこれを辞退した。よって、能登守・教経殿のもとへ「度々の事でありますが、あなたが向っては下さらないか」と伝えると、能登守から「戦というものは我が身にとって一大事と思えばこそ、立派に戦えるものです。狩猟や漁のように、足場のいい所へ向おう、足場の悪い所は避けようなどというのでは、戦に勝つ事などできますまい。何度でも構いません、手強い方面へは、この教経が向いましょう。私が攻める一方だけは、必ず敵を打ち破ってみせましょう。どうかご安心下さい」という頼もしい返事が来た。宗盛公は非常に喜んで、越中前司・盛俊*1を始めとする一万騎の軍勢を、能登守につけた。能登守は兄の越前三位・通盛卿と共に、山の手を固めた。山の手というのは、鵯越*2の麓である。通盛卿が能登守の仮小屋に自分の北の方を呼んで最後の名残を惜しんでいると、能登守は非常に怒った。「この方面は手強いからという事で、この教経が差し向けられたのです。本当に手強いに違いありません。たった今、上の山から源氏がざっと駆け下りてきたならば、武器を手に取る暇もないでしょう。たとえ弓を手に取ったとしても、矢をつがえなければ無駄というものです。たとえ矢をつがえたとしても、弓を引くことができなければ更に状況は悪くなります。ましてこのように気を緩めていては、どうして敵に勝つ事ができましょうか」弟にいさめられて、その通りだと思ったのだろう、通盛卿は急いで武器を身につけると、北の方を帰したのだった。
 二月五日の夕暮れ、源氏の軍勢は児屋野を発って、少しづつ生田の森に近付いた。雀の松原*3・御影の杜*4・児屋野の方を見渡すと、源氏の軍勢があちこちに陣を構え、かがり火を焚いている。夜が更けるにつれて、それは山の端から出る月のように見えた。平家も「かがり火を焚け」と、生田の森に形ばかりのかがり火を焚いた。夜が明けるにつれ、それらは晴れ渡った空の星のように見えた。昔、「沢辺のほたる*5」と詠まれた情景を、今こそ身に染みて思い知ったのである。源氏はあそこに陣を取って馬を休め、ここに陣を取って馬に草を食わせるなどしていて、それほど急いではいない。が、平家の方は、今か今かと心が落ち着く暇もなかった。
 二月六日の明け方、義経は一万騎を二手に分けて、まず土肥二郎実平を七千騎で一の谷の西方へ差し向けた。自分は三千騎で、一の谷の後ろ、鵯越を駆け下りようと、丹波路から敵の背面に回りこんだ。兵士たちが「ここは険しくて有名な難所であります。敵と戦って死にたいものです。難所に落ちて死にたくはありません。ああ、この山に詳しい者はいないか」と口々に言っていると、武蔵国の住人・平山武者所季重が進み出ていった。「季重はこの山の様子をよく知っております」義経が「お前は東国育ちの者、今日始めて見る西国の山に詳しいとは、信じがたい」と言うと、季重は続けて「貴人のお言葉とは思えないことよ。吉野・初瀬*6の花を訪れた事にない歌人が知っているように、敵のこもっている城の後ろの山は、剛勇な武士こそが知っているものでございます」と言う。これまた傍若無人な振る舞いであった。
 また、武蔵国の住人・別府小太郎という元服を済ませたばかりの十八歳になる者が進み出て「父であります義重法師が、『敵に襲われた場合も、遠く山を越えて狩りをする場合にも、深い山に迷った時は、老馬を放って先に行かせよ。必ず道へ出るぞ』と申しておりました」と言うと、義経は「立派な事を言うものだ。雪が野原を埋めても、老いた馬だけは道を知っているという前例がある*7」と言って、白味がかった葦毛の老馬に、前後を金属で縁取りした鞍を置き、白く光る鉄のくつわを噛ませ、手綱を鞍の前に掛けて、先に行かせた。すると、老馬はまだ誰も入った事のない深山へ入って行く。季節は二月の初めであるので、峰に積もった雪は融け始めており、花かと見間違える所もあった。谷からは鶯が訪れ、霞に迷う事もあった。上れば白い雲のかかった山がそびえ立ち、下れば青葉の茂る山が険しくそびえている。松に積もった雪もまだ消えず、苔に覆われた細い道がかすかに続いている。嵐に吹かれて雪が舞う度に、それは梅の花のように見えた。あちこちに急ぎ馬を走らせているうちに、山道の途中で日が暮れたので、馬から降りて陣を構えた。
 武蔵坊弁慶が老翁を一人連れて来た。義経が「その老人は何者か」と尋ねると、「この山の猟師でございます」と答える。「さてはこの山に詳しい者であるな。知っている事をすべて申せ」と言うと、「どうして知らない事があるでしょうか」という答え。「これから平家の城郭・一の谷へ駆け下りようと思っているのだがどうか」「とても可能とは思えません。三十丈*8の谷、十五丈*9の岩が突き出た所など、人の通る所ではございません。まして馬などは不可能です。その上、城内では落とし穴を掘って、先端を尖らせた竹を並べて待ち構えているでしょう」「では、そこを鹿は通うか」「鹿は通います。辺りが暖かくなりましたら、草の深く茂った所に伏そうとして、播磨の鹿は丹波を越えますし、辺りが寒くなりましたら、雪の浅い所で餌を探そうとして、丹波の鹿は播磨の印南野*10へ通います」これを聞いて義経は、「そうだとするなら、馬場も同然だ。鹿が通う所を、どうして馬が通れない事があろうか。他ならぬお前が案内をいたせ」と言った。老翁が「この身では年老い過ぎております」と言うと、義経は「お前に子はないか」と尋ねた。「おります」という事で、熊王という十八歳になる者が連れてこられた。すぐに元服させ、父が鷲尾庄司武久といったので、鷲尾三郎義久と名乗らせた。鷲尾三郎は馬に乗って軍勢の先頭に立ち、案内者となったのである。この鷲尾三郎義久は、平家追討の後、鎌倉殿と仲違いした義経が奥州で討たれる時まで付き従い、同じ場所で死ぬ事になる。

*1:平盛国の子

*2:ひよどりごえ:現神戸市兵庫区から北区山田町へ越える山道の旧称

*3:現神戸市東灘区魚崎の海岸

*4:現神戸市東灘区御影町

*5:伊勢物語八十七段「やどりの方を見やれば、あまのいさり火おほくみゆるに、かのあるじのをとこよむ。晴るる夜のほしか川辺の蛍かもわがすむかたのあまのたく火か、とよみて家に帰りきぬ」による

*6:奈良県吉野山桜井市初瀬、共に桜の名所

*7:韓非子・説林篇による

*8:約90メートル

*9:約45メートル

*10:いなみの:現兵庫県加古川郡から明石市に渡る地域