平家物語を読む120

Snowy Egret

巻第八 大宰府*1

 大宰府を都と定め、内裏を造る相談をしていた平家は、維義の謀反を耳にして、どうしてかと狼狽した。大納言・平時忠卿が「維義という者は、小松殿*2に仕える御家人でした。小松殿の人々を送って、説得させるのがいいのではないでしょうか」と言うと、「その通りだ」という事になり、新三位中将・資盛*3卿が五百騎の軍勢で豊後国へ向った。あれこれとなだめすかしたが、維義は従おうとはしない。それどころか、「あなた方も、今すぐにここで拘束するべきなのですが、更なる大事を控えている上はそのような小事に関わってはいられません。よって拘束しないというのに、どれほどの事ができるというのでしょうか。さっさと大宰府へ帰って、ただ一門の方々と最期を迎えて下さい」と言われ、追い帰されてしまった。維義の次男である野尻二郎維村*4が使者として大宰府を訪れ、「平家は度重なる恩義のある主君ですので、甲を脱ぎ、弓の弦をはずして参りましたが、後白河法皇の命には、速やかに九州から追い出せとございます。急いで九州から退去なされるべきではありませんか」と伝えると、これを聞いた時忠卿が維村の前に現れた。緋色の紐で袖口をくくった衣に葛布で仕立てた袴をはき、立烏帽子をかぶっている。「我が君・安徳天皇は、天照大神から四十九世に当たる正しい血筋を引く子孫で、神武天皇から八十一代目に当たる天皇である。天照大神・正八幡大菩薩も我が君だけを守っていらっしゃるのだ。その上、故太政大臣・清盛殿は、保元・平治の両乱を鎮め、更には九州の者たちまでも官軍の方へ呼んでやったではないか。東国・北国の凶徒たちが頼朝・義仲たちに言いくるめられたように、『うまくやり遂げたなら国司に任命しよう、庄園を与えよう』などという事を真に受けたあの『鼻豊後』の命に従うとは、あってはならない事である」豊後国国司刑部卿三位・藤原頼輔卿は、極めて大きな鼻をしていたので、時忠卿はこのように呼んだのである。戻った維村がこの事を父・維義に伝えると、「何という事だ、昔は昔、今は今。そのような態度を取るのであれば、すぐにでも追い出してしまえ」と言って、軍勢を集め始めた。平家にもこの事が伝わり、平家の侍である大夫判官・源季貞*5と摂津判官・盛澄が「今後の同輩への悪影響を考えるとけしからぬものがあります。捕まえてまいりましょう」と、総勢三千騎ほどで筑後国の高野本庄*6を出発した。一日一夜、攻め戦ったが、維義の軍勢は次から次へと現れる。力及ばずに、とうとう退散したのだった。
 緒方三郎維義が三万騎以上の軍勢で、今すぐにも攻めてくるとの噂が流れると、平家一門は取るものも取らずに大宰府から逃げ出した。あれほど頼みにしていた安楽寺*7の神域から離れるのは、何とも心細い。天皇の御輿をかつぐ下人もいないので、御輿の装飾は名ばかりで、ただの腰輿*8に、安徳天皇はお乗りになった。国母である建礼門院を始めに、身分の高い女房たちは皆、袴の腰の辺りをつまんですそを上げ、大臣・宗盛公以下の公卿・殿上人たちは袴の腰の辺りをつまんで、それを腰の紐に挟み込んで急ぎ歩いた。水城の関*9を抜け、裸足で我先にと箱崎*10へと向う。ちょうど降り出した雨は、車軸のように太く激しい。吹きつける風は砂を巻き上げた。流れる涙と降る雨、どちらがどちらかわからないほどである。住吉神社*11筥崎宮香椎宮*12・宗像神社*13を伏し拝み、ただただ安徳天皇が旧都の平安京へ帰られるようにと祈るばかりであった。垂見峠*14・鶉浜*15などという険しい難所を進み、果てしなく広がる砂浜を目指す。少しも慣れていない事であり、足から出る血が砂を染め、紅色の袴はその色を増し、白い袴は紅色になった。あの玄奘三蔵が流沙葱嶺*16を越えた時の苦しみに、劣るとも思えない。けれどもそれは仏道修行のためであり、自分にも他人にも利益が及ぶであろうが、これは怨敵のせいであり、後世の苦しみを予想させるものだったのは悲しい事であった。
 原田大夫種直は二千騎で平家のお供をしていた。そこに、山鹿兵藤次秀遠が数千騎で平家を迎えに現れたが、種直と秀遠は非常に仲が悪かったので、種直は具合が悪くなってはと、道を引き返した。芦屋の津*17という所を過ぎる時にも、「これは我らの都から福原へ行く時に通る里の名と同じではないか」と思えば、どこよりも懐かしく、今さらながらしみじみとした思いに浸ったのである。新羅百済・高麗・契丹・雲の果て、海の果てまでも逃げていこうと思っていたが、波風の強さに耐えられず、秀遠に連れられて山賀の城にこもった。が、山賀にも敵が攻めてくるという噂が流れると、小舟にて夜通しかかって豊前国の柳が浦*18へ渡った。ここに内裏を造るという話し合いも持たれたが、それに見合う広さがなかったので実現できなかった。今度は長門から源氏が攻めてくるという噂が流れたので、海人の小舟に乗って海上に出た。故重盛公の三男である左中将・清経*19は、もとから何事にも思いつめる人であったので、「都は源氏のために攻め落とされ、九州は維義のために追い出された。網にかかった魚のようである。どこへ行ったら逃げられるというのか。生き永らえるような身でもない」と、ある月夜、心を落ち着けて舟の甲板に出ると、横笛で音程を定めて歌を歌っていたが、静かに経を読んで念仏を唱えると、海に沈んでしまった。男も女も嘆き悲しんだがどうしようもない事であった。
 長門国は新中納言・知盛卿の国であった。国司の代理として国務を行うのは紀伊刑部大夫・道資*20という者である。この道資は、平家が小舟に乗って海上を漂っている事を聞いて、大舟を百艘、調達してきた。これらに乗り移った平家は、四国へ渡った。阿波民部・重能が指揮を執り、四国中の人々を集めて、讃岐の屋島*21にほんの形式だけの板葺き屋根の内裏や御所を造らせた。だが、粗末な民家を皇居とする訳にもいかず、舟を御所と定めるに至った。大臣・宗盛公以下の公卿・殿上人は、海人の住む粗末な小屋で日中を過ごし、卑しい者たちの寝所で夜を重ねた。天皇の御座舟は海上にあるため、この波の上の仮の御所は少しも静かな時がない。人々は、月の姿を映す潮のような深い悲しみに沈み、霜に覆われた蘆の葉のようにはかない命を危ぶんだ。明け方に浅瀬で騒ぐ千鳥の声が恨みを募らせ、夜中に断崖へ響く梶の音が心を痛ませる。遠い松林に白鷺が群れるのを見ては、源氏が旗を上げているのかと疑い、はるか遠い海上で雁が鳴くのを聞いては、敵の兵士たちが夜通し舟を漕いでやって来たのかと驚いた。海を渡る潮風は肌を侵し、若々しい肌の色はどんどん衰えた。青々とした海を眺める目は悲嘆によって落ち窪み、都から遠く離れた土地で故郷を思って流す涙をこらえる事は難しい。身分の高い女性の寝室はかつての美しいものから、粘土で塗ったみすぼらしいものに変わり、翡翠の羽で飾った帳は蘆で作った粗末なすだれに、香炉から立ち上る名香の煙は燃料として焚かれる蘆の煙となってしまった。このように女房たちは尽きない思いに涙を流し、眉墨は乱れ、その人とわからないほどであった。







*画像の鳥は、Snowy Egret(アメリコサギ)です

*1:だざいふおち

*2:故重盛

*3:すけもり:重盛の次男

*4:これむら

*5:すえさだ

*6:現福岡県浮羽郡田主丸町竹野

*7:今の大宰府神社

*8:ようよ:長柄を腰の辺りに持ち上げて運ぶ輿

*9:天智天皇の時代、新羅の侵攻にそなえて設けた堤の一箇所切れた場所

*10:福岡市東区箱崎の筥崎八幡宮

*11:現福岡市博多区住吉にある

*12:福岡市東区香椎にある

*13:現福岡県宗像郡玄海町にある

*14:宗像郡と遠賀郡との境にある

*15:うずらはま:垂見峠の東にある今の内浦浜

*16:りゅうさそうれい:中国の西部からインドに入る時に越える険難の地

*17:現福岡県遠賀郡芦屋町にある

*18:北九州市門司区の海岸

*19:きよつね

*20:みちすけ

*21:香川県高松市の北東部にある岬