平家物語を読む105

巻第七 還亡*1

 上総守・藤原忠清と息子の飛騨守・景家は、一昨年に清盛公が亡くなった時、共に出家していたが、今度の北国の戦で、それぞれの子供*2が死んだと聞き、嘆く余り、ついに死んでしまった。これを始めに、親は子に先立たれ、妻は夫と離れ離れになるという事が、遠国でも近国でもよくあった。都では、家々が門戸を閉じて念仏を唱え、うめき叫ぶ声もよく聞かれた。
 六月一日、天皇は蔵人右衛門権佐・藤原定長と神祇権少副大中臣・親俊を、清涼殿の殿上の間の入口に呼んで、戦乱が鎮まらない時は伊勢大神宮へ参詣する事を伝えられた。
 大神宮は、高天原*3より国土に下られた天照大神を、崇神天皇*4大和国の笠縫の里に祀られたのが始まりで、崇神天皇の治世二十五年三月に、伊勢国度会郡*5五十鈴川の川上に遷され、地下に埋めた礎石の上に太い柱を立て、神明造りで神殿が建てられた。以後、大小の天の神・地の神、冥界にあるもろもろの仏が祀られた日本六十州の三千七百五十社の中で、これに並ぶものはない。とはいえ、代々の天皇のご参詣はなかった。ここに、聖武天皇*6の治世の頃、左大臣藤原不比等の孫で、参議式部卿・宇合の子、右近衛権少将兼太宰少弐・藤原広嗣*7という人がいた。天平十五年十月、肥前国松浦郡の数万の凶賊を味方につけ、反乱を起こした。このため、大野東人*8を大将軍にして、広嗣を追討させた時、聖武天皇が大神宮を参詣なされたのが初めてであるという。今回はその例に習ったと聞く。広嗣という人は、肥前の松浦から都までを一日のうちに往復できる馬を持っていた。追討された時も、味方の凶賊が逃げ、皆滅びて後、その馬にまたがって海の中へ駆け入ったと聞く。その亡霊が暴れて、恐ろしい事がたくさん起こったので、天平十六年六月十八日に筑前国御笠郡の大宰府観世音寺で供養が行われた。この法会の中心となった僧は玄房僧正*9と聞く。高座に上って法会の趣旨を述べ、鐘を打ち鳴らすと、急に空が曇り、激しく雷が鳴った。雷は玄房の上に落ち、その首を取って雲の中へと消えた。広嗣を責め伏せようとしたからだという事だ。
 この玄房とは、吉備真備と同時期に唐に渡り、共に法相宗を日本に広めた人である。唐人が玄房という名を笑って、「玄房とは、『還って亡ぶ』と書く『還亡』と、音が通ずる。どう見ても、帰朝の後に大事件にかかわる事になるだろう」と判断したという。天平十九年六月十八日、玄房と書き付けられたどくろが興福寺の庭に落とされ、空で人ならば千人ほどの声がどっと笑うという事があった。興福寺法相宗の寺だからである。故玄房の弟子たちが、このどくろを拾って塚を築き、そこへその首を納めて「頭墓」と名付けたものが今もある。これらが、広嗣の霊が行った事である。よって、その霊は崇められ、広嗣を祀る板櫃神社は、「鏡の宮」と呼ばれている。
 嵯峨天皇*10の治世に、尚侍・薬子の勧めにより先帝の平城上皇が反乱を企て世の中が乱れた時、天皇は祈願のために、第三皇女の有智内親王賀茂神社に奉仕する役に任命された。これが斎院の始まりである。朱雀院*11の治世には、将門・純友の反乱によって、石清水八幡宮の臨時の祭礼*12が始まった。今回も、このような先例に習って、様々な祈願が始められた。

*1:げんぼう

*2:忠綱は忠清の子、景高は景家の子で、共に倶梨伽羅谷で戦死した

*3:たかまのはら:神々がいるという天上界

*4:第10代天皇

*5:わたらい:現三重県伊勢市辺りの旧名

*6:第45代天皇

*7:ひろつぎ

*8:あずまうど:果安の子で、陸奥鎮守府将軍

*9:げんぼう:「ぼう」は、日偏に方

*10:第52代天皇

*11:第61代天皇

*12:毎年三月に行われる