平家物語を読む102

巻第七 倶利伽羅*1

 さて、源平両軍は対陣した。その間隔はわずか三町*2ほどである。源氏も進まず、平氏も進まない。義仲は腕の達者な射手十五騎を盾の前に進ませた。その十五騎は開戦の合図である鏑矢を、平家の陣の中へ射た。平家はこれを策略とは知らず、同じように十五騎を前に出し、十五の鏑矢を射返した。次に源氏が三十騎を前に出して鏑矢を射ると、平氏も三十騎を出してきて三十の鏑矢を射返した。五十騎出せば同じく五十騎を出してくる。最後には、双方とも百騎づつ陣の前へ進んだ。互いにすぐにも勝負しようと勇み立つが、源氏の方がそれを制して勝負をさせない。源氏がこのようにして時間をかせぎ、平家の軍勢を倶梨伽羅の谷底へ追い落とす計略である事を平家は少しも悟らずに、相手に応えて無駄に時間を過ごすとは浅はかであった。
 次第に辺りは暗くなってきた。北と南の方から迂回して平家の背面へ回りこんでいた源氏の軍勢一万騎が、峠にある倶梨伽羅不動明王を祀る堂の辺りで、矢を入れるえびらを打ち叩き、どっと喚声を上げた。平家が背後を振り返ると、雲が湧き上がるように白旗がたなびいている。「この山は四方が岩であるのだから、背面からの軍勢はまさかやって来ないだろうと思っていたのに、これはどういう事だ」と騒ぎあった。そうしているうちに、義仲は背面の軍勢に合わせて正面から喚声を上げた。松長の柳原・矢立山を下る山路の南の木立に控えていた一万騎以上の軍勢も、日宮林にいた今井四郎兼平が率いる六千騎も、同時に喚声を上げた。前後の四万騎が大声で叫ぶ声は、山も川もあっという間に崩れてしまうかというほどである。義仲が思った通り、平家は次第に暗くなるし、前後から敵は攻めてくるしで、「見苦しいぞ、引き返せ引き返せ」という者も多かったが、崩れ始めた軍勢を簡単にまとめる事も難しいので、我先にと、皆が倶梨伽羅の谷へ下り始めた。真っ先に進んだ者が見えないので、谷の底には抜け道があるのだろうと、親が進めば子も進み、兄が向えば弟も続いた。主人が行くので家来も行く。こうして、馬には人、人には馬が落ち重なり、あれほど深い谷全体を平家の七万騎の軍勢が埋め尽くしてしまった。谷川は流れる血で赤く染まり、死骸が山となった。よってその谷の辺りには、今でも矢の穴、刀の跡が残っていると聞く。平家の主要な家来と頼りにされていた上総大夫判官・忠綱、飛騨大夫判官・景高も河内判官・秀国も、この谷に埋れて死んでしまった。備中国の住人・瀬尾太郎兼康という名高い力持ちも、この谷で加賀国の住人・蔵光次郎成澄*3によって生け捕りにされた。越前国の火燧が城で裏切りを働いた平泉寺の長吏・斎明威儀師も捕らわれたが、義仲の「余りに憎いので、その法師を切ってしまえ」という言葉通り、切られた。平氏の大将軍、維盛・通盛は命拾いをして、加賀国へ退散した。逃れる事ができたのは、七万騎の中でたった二千騎ほどであった。
 翌十二日、奥州の藤原秀衡から義仲へ、駿馬が二頭、贈られた。一頭は灰色がかった赤味のある葦毛、もう一頭は葦毛に銭を並べたような斑文のある馬である。義仲はすぐにこれらの馬に金であしらった鞍をおいて、白山の社へ神馬として納めた。義仲は「今は思い悩むような事もない。ただ、十郎蔵人殿の志保の戦だけが気にかかる。行って見てこよう」と、四万騎の中から人と馬を選りすぐって、二万騎で向った。ひみの入り江*4を渡ろうとした時、ちょうど潮が満ちていた。深さがわからなかったので、鞍を置いた十頭の馬を追い入れると、鞍の前輪と後輪の先が浸るほどで、馬は無事に向こう岸へと渡った。よって「浅いぞ、渡れ」と、二万騎の軍勢が皆、この入り江を渡った。向ってみると、心配していた通り十郎蔵人行家は、騎馬の軍勢に散々に蹴散らされている。義仲は「やはりそうか」と、平家の三万騎の軍勢の中へめがけて、連れてきた二万騎の軍勢を突入させた。激しく入り乱れて戦い、火花が出るほど攻め込んだ。しばらくは何とか防いでいた平家の兵士たちも、こらえきれずに攻め落とされた。平家の大将軍であった三河守・知教は討たれて死んだ。これは清盛公の末子である。多くの侍が討たれた。義仲は、志保の山を越えて、能登の小田中*5にある崇神天皇の皇子・大入杵命の塚の前に陣を構えた。

*1:くりからおとし

*2:約327メートル

*3:藤原利仁の子孫

*4:富山県氷見市付近の入り江

*5:現石川県鹿島郡鹿島町小田中