平家物語を読む81

Snowy Egret

巻第五 富士川

 さて福原では、伊豆国の頼朝に軍勢がつかないうちに討手を送るべきだと、公卿の評議が行われた。大将軍の権亮*1少将・平維盛*2、副将軍の薩摩守・平忠教*3を先頭に、九月十八日に都を発った総勢三万騎以上の軍勢は、十九日に旧都に着き、二十日には東国へ向かって出発した。大将軍の維盛は二十三歳、絵には描ききれないほど整った容姿と礼儀にかなった身のこなしをしている。平家に代々伝わる鎧で「唐皮」という大鎧を大陸風のふたつきの箱に入れて担がせた。道中は赤地の錦の衣に若葉色の糸で綴った鎧を着て、葦毛に銭を並べたような斑文のある馬に金で縁取りをした鞍を置いて乗った。副将軍の忠教は紺地の錦の衣に黒糸で綴った鎧を着て、太くたくましい黒い馬に一面、金粉銀粉を流しかけた漆塗りの鞍を置いて乗った。馬・鞍・鎧・甲・弓・矢・太刀・刀に至るまで、輝くような様子での出発であり、その姿は見る者の目を奪った。
 薩摩守・忠教は年来から、皇女の子として生まれたある女房のもとへ通っていた。ある時、忠教がこの女房の館にいる時、身分の高い女房が客として訪れた。長い時間、様々な事について話しをし、夜がふけても帰ろうとしない。忠教が仕方なく軒の端にしばらくたたずんで扇を手荒に使っていると、女房が「広い野も狭いほどに群がって鳴く虫である事よ*4」とゆったり上品に口ずさむと、忠教はすぐに扇をつかんで帰ってしまった。その後また訪れた時、女房が「あの日、どうして扇を使うのをやめたのですか」と聞くと、忠教は「うるさいなどというように聞こえたので、扇を閉じたまでです*5」と答えたという。今回の戦に当たって、この女房から忠教へ小袖*6を一つ、贈る事になり、女房は千里ほども遠く隔たれる別れの名残惜しさに、一首の歌を送った。
   あづまぢの草葉をわけん袖よりもたゝぬたもとの露ぞこぼるゝ*7
忠教は返事を送った。
   わかれ路をなにかなげかんこえてゆく関もむかしの跡とおもへば*8
この「関もむかしの跡」とは、平貞盛将軍が将門を追討するために東国へ下った事*9を指して読んでいる。何と優美な事であろうか。
 昔は朝敵を平定するために外地へ赴く将軍は、まず参内して天皇より指揮権のしるしとしての刀である「節刀」を与えられた。天皇が紫宸殿にお越しになり、近衛府の役人たちが階の前に整列し、儀式を司る大臣たちが列席し、中儀の節会*10は行われる。大将軍・副将軍それぞれが、礼儀をつくして刀を受け取るのだ。承平・天慶年間の将門・純友追討の先例もずいぶん遠い事となり、手本にするのは難しいと今回は讃岐守の平正盛*11が前対馬守・源義親の追討のために出雲国へ向かった時を例として、駅鈴*12を与えられる事になり、皮の袋に入れて雑務担当の役人の首に掛けて渡された。過去、朝敵を滅ぼそうとして都を出た将軍には、三つの心得があった。節刀を与えられる日に家を忘れ、家を出る時に妻子を忘れ、戦場にて敵を戦う時に身を忘れる。よって、平氏の大将である維盛・忠教も、きっとこのような事を心得ていた事だろう。気の毒な事であった。
 九月二十二日、高倉上皇安芸国厳島を再び参詣なされた。三月にも参詣されている。そのお陰だろうか、一両月は世の中も落ち着き、民衆の心配もなかったのだが、以仁王*13の謀反によってまた国は乱れて世間も騒がしくなっていた。よって今回の厳島参詣は、一つは国が穏やかに治まるため、もう一つは上皇の病が治癒するための祈願であると聞かれた。今回は福原からの出発のため、長い旅路に煩わされるという事もない。上皇自ら願文をお書きになって、摂政・藤原基通殿に清書をさせられた。
まさしく聞くところによれば、万物の本性の光は雲にさえぎられる事なく明らかである。十四、十五の月は澄み切って、厳島明神の智慧は深い。万物を育成する陰陽の風が交互に吹く。厳島明神は、その名を讃えるところに、霊験が他に並ぶところのない聖域である。社殿を取り巻く高い峰は仏の広大な慈悲が高くそびえたつ事を表し、社殿のそばまで来ている大海は空に仏の広大な誓願がある事を表している。私は凡庸で愚かな身でありながら、恐れ多くも天皇の位をふんだ。今は老子の教えに従って、謙虚に自適の生活を楽しみ、静かに仙洞で暮らしている。特に心を込めて孤島の厳島明神に参詣し、社殿の玉垣の下にひれ伏して神仏の恵みを祈り、深く心を傾け恐れかしこまって、神のお告げを受ける。そのお告げを心に銘ずるつもりである。特に我が身を慎むべき期間は、夏の終わりから秋の初めにかけてとある。病はたちまちこの身を侵したが、まだ医術を施す事はない。月日の経過は速い。いよいよ神感が虚しくはない事を知った。祈祷を求めても、病の鬱陶しさが晴れない。いっそのこと志を更に深くして、再び行脚修行を行おうと思った。果てしなく吹きすさぶ寒風の下、旅宿の眠りから覚め、薄ら寒くかすかな日差しの前で、はるか遠路を臨んだ。神域に清浄な席を設け、法華経一部、開結二経*14阿弥陀・般若心経など各一巻を色紙に墨書きし、提婆達多品一巻を自ら金泥で書写した。時に蒼々とした松や柏の陰が善根を育み、寄せては返す潮音が空に響いて仏を讃える歌声と調和した。弟子たる自分が内裏から出る事八日、涼しさ暖かさが幾度も変わるほど多くの年月が過ぎたが、西海の波を越える事二度目にして、深く仏の教えを受けるべき因縁がある事を知った。朝に祈りをする者は一人ではない。夕に祈願の成就を感謝するために参詣する者は極めて多い。ただ、身分の高い人の帰依は多いと聞くが、院宮*15の参詣はいまだ聞いた事がなかった。後白河法皇は初めて参詣をなされた。あの嵩高山*16の月の前では、漢の武帝も仏の姿を拝する事ができなかった。蓬莱洞*17の雲の底でも、和光垂迹の世界からは程遠い。どうか大明神、一乗経、新たに丹精込めた祈りを照覧して奥深い感応を垂れたまえ。
 治承四年九月二十八日   高倉上皇
 そうしているうちに、戦に向かう軍勢は都を発って、千里離れた東海へと向かっていた。無事に都へ帰るという事も非常に危うい状況であったが、野原の露の下を宿としたり、高い峰の苔の上に眠ったりして、山を越え川をいくつも過ぎて、十月十六日に駿河国清見が関*18に着いた。都を出た時には三万騎ほどだった軍勢が、途中から加わった兵士によって七万騎にまでなったと聞く。先陣が蒲原・富士川*19に進んだ頃、後陣はまだ手越・宇津*20の辺りで足踏みをしていた。大将軍の維盛が侍大将の上総守・忠清を呼んで、「私が思うには、足柄峠*21を越えて、坂東で戦をしようではないか」と勇みたつのを、忠清が「福原に都を遷された時、清盛公は『戦は忠清に任せなさい』とおっしゃいましたぞ。八ヶ国の兵士たちが皆、頼朝に従うとすれば、何十万騎になるでしょうか。あなたの軍は七万騎以上とは言っても、諸国から寄せ集めた武士たちです。馬も人も疲れています。伊豆・駿河の軍勢がやって来るはずが、いまだ現れません。富士川の前で、味方の軍勢を待つべきではないでしょうか」と言ったので、一行は躊躇して進まなかった。
 一方、兵衛佐・頼朝は足柄峠を越えて、駿河国の黄瀬川*22に着いていた。甲斐・信濃の源氏たち*23も急ぎ集まり、浮島が原*24に勢ぞろいし、その数は二十万騎と記録された。常陸源氏の佐竹太郎忠義*25の雑役担当の役人が、主人の使いで手紙を持って都へ向かっていたところを、平家の先陣にいた上総守・忠清が止めた。持っていた手紙を奪い取り開けてみると、女房への手紙であったので「問題ないだろう」と、手紙を返した。「ところで頼朝殿の軍勢はどのくらいか」と聞くと、「八日か九日かかる道筋に兵士がびっしりと続いて、野も山も海も川も武者でいっぱいです。身分の低い私は四、五百、千までは数え方を知っていますが、それより先は知りません。多いのやら少ないのやらわからないのです。昨日、黄瀬川で誰かが、源氏の軍勢は二十万騎だと言ってはいましたが」と答える。忠清はこれを聞いて、「ああ都の大将軍・宗盛殿がのんびりとしていらっしゃる事ほど、悔しい事はない。一日でも早く討手を許されていたなら、足柄峠を越えて八ヶ国へ進出していたならば、畠山の一族*26・大庭の兄弟*27がどうして駆けつけない事があっただろうか。彼らが集まりさえすれば、坂東では草木でさえもなびかないものはなかっただろうに」と後悔したが、どうしようもない。
 また、大将軍の権亮少将・維盛は、東国の案内者として長井の別当・斉藤実盛*28を呼んで、「実盛よ、お前ほど弓勢の強い射手は、八ヶ国にどのくらいいるのか」と聞いた。すると実盛はせせら笑ってこう答えた。「ということは、主君はこの実盛を大矢*29と思われているのでしょうか。常人が握りこぶし十二個分の矢を使うのに対して、私はわずか一握り多い十三個分の長さです。実盛くらいの射手は、八ヶ国にいくらでもいましょう。大矢と評判の者で、その矢の長さが握りこぶし十五個分に劣る者はいません。弓を張る強さも、強くたくましい者が五、六人で張るほどにもなります。このような兵士たちが矢を射れば、鎧の二、三個を簡単に貫いてしまいます。名田を多く持つ有力な豪族とは、率いる軍勢が少ないといっても、その数が五百騎に劣る事はありません。一旦、馬に乗れば落ちる事を知らず、足場の悪い場所を走っても馬が倒れる事はありません。また戦とは、親が討たれようが子が討たれようが、その屍を乗り越えて戦うものです。西国の戦というのは、親が討たれれば後世を弔うための仏事供養を行い、攻め寄せるのは喪に服す期間が終わってから、子が討たれれば思い嘆く余りに攻め寄せる事はしません。兵糧米が尽きれば春に田を作り、攻め寄せるのは秋に収穫してから、夏は暑い、冬は寒いと言って嫌うのです。東国ではそのような習慣はありません。甲斐・信濃の源氏たちは、この辺りの地理によく通じています。富士の裾野から軍勢の背後に回りこむかもしれません。このように言えば、主君が臆するだろうと思って言っている訳ではありません。戦は軍勢の大きさにはよらず、戦略によると伝えているのです。実盛は今回の戦に生き永らえて、再び都の地を踏もうとは思っていません」これを聞いた平家の兵士たちは皆、恐怖のために体を震わせた。
 そうしているうちに十月の二十三日になった。明日は源平両軍が富士川で、開戦の合図の矢合わせを行うと決まった。夜になって平家側から源氏の陣営を見渡すと、火があちこちに見える。これらは戦を恐れて山に隠れたり、舟に飛び乗って海や川に逃げたりした伊豆・駿河の民衆・百姓たちの炊事の火であったのだが、「源氏の陣営のかがり火の何とおびただしい事か。野も山も、海も川も皆、敵でいっぱいだ。どうしたものか」と平家軍は慌てふためいた。その夜中頃、富士の沼*30にいた水鳥の群れが、何かに驚いたのだろう、一斉にばっと飛び立った。その羽音が大風や雷などの音に聞こえたので、平家の兵士たちは「これは源氏の軍勢が攻め寄せているのではないか。斉藤別当が言っていたように、背後に回りこむ事にしたのではないか。包囲されては大変だ。ここから退散して、尾張*31、州俣*32を防ごう」と、取るものも取らずに、我先にと逃げ出した。余りに慌て騒いだため、弓を取った者は矢を忘れ、矢を取った者は弓を忘れた。人の馬に自分が乗り、自分の馬は人に乗られた。つないだままの馬に乗って走り出した者は、杭の周りを回るばかりである。近くの宿から呼ばれていた遊女たちは、頭を蹴って割られたり、腰を踏み折られたりして、多くの者がうめき叫んでいた。
 明けて二十四日の午前六時頃、源氏の二十万騎の軍勢が富士川に押し寄せて、天にも響き大地をも揺るがすほどの喚声を、三度上げた。

*1:ごんのすけ

*2:これもり:重盛の嫡男

*3:ただのり:忠盛の子で、清盛の異母弟

*4:新撰朗詠集・虫の「かしがまし野もせにすだく虫の音やわれだに物は言はでこそ思へ」をふまえて、虫の音にことよせて、扇の音がうるさい事をほのめかすと共に、忠教と話したいという気持ちを抑えていることを、それとなく示した

*5:故意に、女房の気持ちに気付かないふりをした

*6:袖の小さい下着

*7:東国の草葉をわけて戦に赴くあなたの袖よりも、行かずに都に残る私の袖の方が涙の露で余計に濡れる事でしょう

*8:この別れをどうして嘆く必要があろうか、越えて行くのは昔、我が先祖が戦勝した跡なのだから

*9:貞盛は藤原秀郷と共に将門の乱を平定したが、大将軍として東国に下ったのは藤原忠文であり、事実と反する

*10:大儀・中儀・小儀の三階のうちの中位で、六位以上が参列する儀式

*11:清盛の祖父

*12:馬路の人夫や馬を強制的に集める事ができる権限があるしるしとされた

*13:高倉の宮

*14:無量義経と普賢観経で、法華経と共に法華三部経とされる

*15:上皇法皇女院三后太皇太后・皇太后・皇后)・東宮の総称

*16:すうこうざん:中国五岳の一つ

*17:中国東方の海上にあるとされた仙郷

*18:静岡県清水市興津付近にあった関

*19:静岡県庵原郡蒲原町とその東の富士市との境をなすのが富士川

*20:静岡市の安倍川西岸にあった宿駅・手越と、その西の宇津谷峠

*21:現神奈川県西南部で、駿河と相模の国境に当たる

*22:沼津市の東の黄瀬川東岸にあった宿駅

*23:新羅三郎義光の末裔で、武田・一条・板垣・平賀・小笠原らの諸氏

*24:静岡県東部の愛鷹山の南麓の砂丘地帯

*25:新羅三郎義光の孫の昌義が常陸国久慈郡佐竹に住んで佐竹姓を名乗り(常陸源氏)、忠義は昌義の子

*26:坂東八平氏の一つで、秩父氏流の畠山重忠とその一族(河越・稲毛・小山田・江戸・葛西など)

*27:坂東八平氏の一つで、相模国大庭に住む大庭平太景義と三郎景親の兄弟

*28:藤原利仁の末裔で、保元・平治の乱では源義朝の配下にいたが、のちに平家に属した

*29:普通より長い矢を射る事ができる人

*30:静岡県東部の浮島が原にある沼

*31:木曽川の古名

*32:すのまた:現岐阜県安八郡墨俣町で、三つの川の合流地点で東海道東山道の要衝