平家物語を読む69

Killdeer

巻第四 ぬえ

 そもそも三位入道・源頼政というのは、摂津守・源頼光*1から五代の三河守・頼綱の孫で、兵庫頭*2・仲正の息子である。保元の乱の時は、後白河天皇側で先頭に立って敵陣へ攻め込んだにもかかわらず、それに見合った褒美を受け取る事はなかった。また、平治の乱においても、親類を捨ててまで駆けつけたにもかかわらず、褒美はまったく粗末なものであった。長い間、大内裏の警護にあたる役職に就いていたが、昇殿は許されなかった。年を取り老いて後、不満を述べた一首の和歌により、ようやく昇殿を許された。
   人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月を見るかな*3
昇殿を許された後は、正下四位にしばらく留まったが、三位を夢見て詠んだ歌によって、三位へ上がった。
   のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな*4
その後すぐに出家して、源三位入道を呼ばれるようになり、今年で七十五歳になっていた。
 この頼政の一生涯の名誉と思われる出来事が、近衛院*5が在位の仁平の頃にあった。天皇が夜な夜な気絶されるという事があり、祈祷の効果があると評判の高僧たちが、命じられて密教の重要な修法を執り行ったが、その効果はなかった。午前二時頃、東三条院*6の森の方で起こった黒雲が御所の上空を覆った時に、天皇は決まって気絶なされた。これを知って、公卿たちは集まって評議を行った。堀河天皇が在位の寛治*7の頃に、同じように天皇が夜な夜な気絶される事があった。その時の将軍・源義家が紫宸殿の大床*8で、天皇が病気になられる時刻が迫った時、弓の弦を三度弾き鳴らした後、大声で「前陸奥守・源義家」と名乗ったところ、聞いていた人々は身震いし、天皇は病気が全快なさったという事があった。
 それならばこの前例に習って、武士に命じて警護をさせるのがよいと、源平両家の兵士の中から猛者を探した際に、頼政が選び出されたと聞く。その時はまだ、兵庫頭だった。頼政は「昔から皇室に武士を置くのは、謀反の者を退け、勅命に背く者を滅ぼすためであります。目にも見えない怪物を退治せよと命じられた事はいまだございません」と言いながらも、天皇の命令ならば仕方がないと参内した。頼政は深く信頼している家来、大きなほろ羽の矢を背負った遠江国の住人・井早太*9、たった一人だけを連れてやって来た。自身は表裏とも同じ色の狩衣に、山鳥の尾羽の矢を二本、藤蔓を巻きつけた弓に添えて、紫宸殿の大床に控えた。頼政が二本の矢を持っていたのは、当時はまだ左少弁であった源雅頼卿が「怪物を退治する事のできる者は、頼政しかいない」と指名したためで、一本の矢で怪物を万が一射損じでもしたならば、二本目の矢では雅頼の首の骨を射ようと思っていた。
 日頃から人々が言っていたように、時刻が午前二時に及ぶと、東三条院の森の方で現れた黒雲が御所の上空に漂ってきた。頼政がキッと見上げると、雲の中に怪しいものの姿がある。これを射損じたならば、生きていられるとは思われなかった。矢をつがえ、「南無八幡大菩薩」と心の中で祈念し、弦をよく引いて矢を放った。手ごたえがあった。「やったぞ」と叫び声を上げた。井早太がさっと駆け寄り、落ちてきたものを取り押さえて、刀で続けざまに九回突き刺した。身分の高い人も低い人も手に手に灯りを持って、これをよく見てみると、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていた。鳴く声はぬえ*10に似ている。恐ろしいなどと言うどころではない。天皇は感心される余り、師子王という剣を頼政に与える事にした。宇治の左大臣藤原頼長殿がこれを受け取り、頼政に渡そうと紫宸殿正面の階段を下りていると、この日は三月十日頃だったので、雲の中をホトトギスが二声、三声鳴いて通り過ぎていった。この時、左大臣殿が、
   ほとゝぎす名をも雲井にあぐるかな*11
と声を掛けると、頼政は右の膝をついて左の袖を広げ、月を少し横目にみながら、
   弓はり月のいるにまかせて*12
と答え、剣を受け取ると立ち去った。「弓矢の腕に並ぶ者がないだけではなく、歌道にも優れている」と、天皇も臣下の人たちも感心された。さて、例の怪物は丸木舟に入れて、流されたと聞く。
 また二条天皇が在位の応保の頃*13、ぬえという怪鳥が宮中で鳴き、しばしば天皇の心を悩ませる事があった。先例に習い、頼政が呼ばれた。時は五月二十日頃のまだ宵のうち、ぬえはたった一度鳴いただけで、二声目はなかった。これほどの闇の中では、相手の姿形も見えないので、矢をどこに向かって射ればいいのかもわからない。頼政は考えるとまず、射ると大きな音が出る矢を弓につがえ、ぬえの声がした内裏の上へと射た。ぬえはこの音に驚いて、空に「ひひ」と鳴声が響いた。頼政は、やはり音が出るようにした二本目の矢を放った。矢はぷつっと命中して、ぬえは落ちてきた。宮中はざわめき、天皇も非常に感心され、褒美として装束を頼政に与える事にした。この時は大炊御門の右大臣・藤原公能公がこれを受け取り、頼政の所へ向かった。「昔の養由基*14は雲の向こうの雁を射た。今の頼政は雨の中でぬえを射た」と誉め、
   五月やみ名をあらはせるこよひかな*15
と声を掛けると、頼政
   たそかれ時もすぎぬとおもふに*16
と答え、装束を受け取って立ち去った。その後、伊豆国を与えられ、息子・仲綱を国司にした。自身は三位に叙せられて、丹波の五ヶ庄、若狭の東宮川保の国務を執り行い、そのまま無事に過ごしていられるはずの人であったのに、謀反などを起こし、高倉の宮まで死に至らせ、自身も滅びたとは気の毒な事であった。

*1:六孫王・経基の孫で、摂津国多田を本拠とし、多田源氏の祖とされる

*2:兵器を司る兵庫寮の長官

*3:大内山の山守とも言える大内裏守護の私は、木々の隙間から月を見るかのようにかすかに天皇の姿を拝見するばかりです

*4:登る手づるもない私は、木の下に落ちた椎の実を拾って暮らしていくしかないのだろうか

*5:第76代の天皇

*6:藤原良房の邸

*7:1087〜1094

*8:寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床

*9:いのはやた

*10:トラツグミの事で、夜、人の悲鳴に似た声で鳴くので、凶鳥として忌まれた

*11:ホトトギスが空高く鳴声を上げているが、同じようにあなたも宮中に武名を上げた事よ

*12:弓を張るにまかせて、偶然に射止めただけです

*13:1161〜1163

*14:中国戦国時代、楚の弓の名手

*15:何も見えない五月の闇の中で、あなたは今夜、武名を上げた事よ

*16:たそがれ時も過ぎ、人の姿も見分けられぬようになりましたので、名乗ったまでです