川

 四国に住み始めて間もない頃、私たちはよく小さな車であちこち旅行をしたが、川を見つけると夫はいつもそわそわした。これが夏だったりすると、「ちょっと見に行こう、魚がいるかどうか」となる。一回の旅行中、何度もそういうことがあると、そのうち私は車の中から「いってらっしゃい」と夫を送り出す。ところが、ちょっと、と言って出て行ったのに待てども暮らせども戻ってこないことがあった。
 車から出て、川へ向かう。真夏の日差しが極めて強いこの時間帯、外に出ている人は見当たらない。人家の畑に咲く花も、暑さでだらりと垂れ下がっていた。蝉の声が耳の中で波のようにうねる。河原へ降りる道を、背の高い草をかきわけながら進んだ。
 すぐに目に飛び込んでくるはずの夫の姿はなかった。見回すと、水際の大きな石の上に服が脱いである。夫は顔を下にした姿勢で、川に浮いていた。魚を見ているようだ。
 しばらくして川から上がってきた夫は「ものすごく水がきれい。魚もいっぱいいる」と、嬉しそう。夫は生まれも育ちも西日本、子供の頃はよく川に潜って魚を捕ったそうだ。一方、私は北日本、川辺ではよく遊んだが、夏でも水は冷たく、流れに足を取られて転びでもしない限り、川に入ることはまずなかった。
 しかしそれから一年もしないうちに、私も川のとりこになった。釣りだったり泳ぐためだったり、目的は様々だったが、私たちは週末になるとよく川を訪ねた。
 四国には日本人なら誰もが知っているような清流がいくつかあるが、それ以外にも(以上に)美しい川はある。お気に入りの川が一つある。高速道路は通っておらず、どの中堅都市からも三時間近くかかるが、水は恐ろしく透き通っている。覗き込むと、小魚から川底の石まですべてが見えてしまうほどだ。真夏、ひんやりと心地よいこの川の流れに身をまかせていると、時間を忘れてしまいそうになる。曲がりの淵に水が留まり、じんわりと深い青色になった箇所は、見ているだけで夏の暑さが吹き飛んだ。
 ところで、当時の私の職場では、仕事柄、あちこち歩き回る人が多かったことや、ほとんどが地元の人だったせいもあり、「今度の週末が、河口での潮干狩りには最適」などという魅力的な情報がよく聞かれた。中には、「○○さんが、須崎の方でカワウソのような生物を見たらしい」というものまであった。
 これを聞いた時ふと、子供の頃に夢中になって読んだガンバシリーズの一冊、「ガンバとカワウソの冒険 (岩波少年文庫)」を思い出した。あの頃、遠い未知の国のように感じていた四国*1とは、ここのことだったのだ、それではあの港はあそこだろうか、あの川は……。物語が突然、身近に迫ってくるような感覚がして、私の胸は高鳴った。

*1:物語の中では、「四の島」