平家物語を読む59

巻第四 信連*1

 これから何が起こるのかなど少しも考えずに、高倉の宮が雲間から覗く五月の十五夜の月を眺めていると、頼政の使者と名乗る者が手紙を持って急ぎやって来た。高倉の宮の乳母の子である大夫・藤原宗信がこれを受け取り、高倉の宮へお渡しした。開いてみるとそこには「君の謀反がばれました。清盛公が君を土佐の幡多へ流すと言って、検非違使庁の役人たちをそちらへお迎えに行かせます。すぐに御所を出られて、三井寺へ向かわれて下さい。私もすぐに向かいます」と書かれていた。「これはどうしたことか」と騒いでいるところに、宮家に仕える侍で兵衛尉の長・長谷部信連という者がいた。「特別な方法はもはやありますまい。女房の装束でご出発なされますよう」と信連に言われ、高倉の宮はその通りと、髪をほどき、衣を重ねて、市女笠をかぶられた。宗信は後ろから高倉の宮に笠をさしかける事にした。鶴丸という童子は、袋に必要なものを入れてそれを頭に乗せた。まるで公家に仕える位の低い侍が女を連れているように見せかけて、高倉小路を北へ向かった。途中、大きな溝をいとも簡単に越えるのを見た人々が、立ち止まって「何とはしたない女房であろうか」とじろじろ見るので、一行は更に急いでその場を立ち去った。
 信連は御所に残った。女房たちをあちこちに隠れさせ、見苦しいものがあれば片付けようと調べていると、高倉の宮が非常に大切にされている「小枝」という名の笛を見つけた。ちょうどその頃、高倉の宮も御所に大切な笛を忘れた事に気付き、戻って取ってこようかと思われていた。信連は「これは大変だ。君があれほど大切にされている笛であるのに」と御所を飛び出た。五町ほど走ったところで高倉の宮に追いつき、笛を差し上げた。高倉の宮は非常に感激なさって、「もし私が死んだら、この笛を棺に入れてくれ」とおっしゃった。「すぐこのままお供せよ」と高倉の宮はおっしゃったが、信連は「すぐにも宮の御所へ役人たちがやって来るというのに、一人も御所にいないというのは残念な事に思われます。というのも、信連が宮の御所にいる事は皆に知られている事であるので、今夜、この信連がいないとなると、いつもいるはずの信連までが逃げたなどと言われます。これは武士として、かりそめにも恥な事であります。私は役人たちをしばらくあしらって、その後、それらを打ち破ってから宮の元へ向かいます」と言い、走って御所へ戻った。信連はその日、薄青の狩衣に下に青黄色の糸で綴った簡略な鎧を付け、装束用の華奢な太刀を携えていた。信連は、三条通に面した正門も、高倉小路に面した小門も、どちらも開いて役人を待ち構えた。
 大夫判官・源兼綱、出羽の判官・源光長は総勢三百人以上の兵士を連れて、五月十五日の夜十二時頃に、高倉の宮の御所へ押しかけた。兼綱は思うところがあると見えて、門前に控えていた。馬に乗ったまま門の中に入った光長が、大きな声で「謀反を起こされたとの噂があり、命令を受けて役人たちが迎えにやってまいりました。すぐにお出でになって下さい」と言うと、信連は板の間に立って「高倉の宮はただ今、御所にはいらっしゃいません。何事であるか、詳しい事情を申されよ」言った。「何を言うか、ここでないなら、どこにいらっしゃるというのか。そうは言わせるものか。下役人どもよ、探して来い」と光長が言うのを聞いて、信連は「ものの道理もわきまえない役人たちだ。馬に乗ったまま門の中へ入るだけでもけしからぬ事であるのに、下役人どもに探して来いとは、何という事だ。私は左兵衛尉・長谷部信連であるぞ。近付けば斬る」と言った。検非違使庁の下役人の一人、金武という力が強く勇敢な者が、信連にねらいを付けて板の間に飛び乗った。これを見た他の者たち十四、五人が後に続いた。信連は狩衣の帯紐を引きちぎって捨てるやいなや、容赦なく斬りつけた。信連の太刀は装束用の物だったが、特によく切れるようにと念を入れて作らせた物だった。敵は太刀や大長刀で攻撃するが、信連の太刀に次々に追いやられ、嵐の中を散る木の葉のように庭へ退散した。
 十五夜の月が雲の切れ間から現れ、辺りは明るくなった。が、敵は御所に不案内である。勝手を知っている信連は、あっちの廊下に追いやっては、こっちの行き止まりに追い詰めてはと、斬りつけた。敵が「どうして命令を受けてやって来た役人にこんな仕打ちをするのか」と問うと、信連は「命令とは何の事だ」と答えて、見事に太刀をふるい、瞬く間に十四、五人の腕利きの者たちを倒してしまった。さて、腹を切ろうとしたが、太刀は先が三寸ほど折れてしまっている。腰を探ったが、短刀もどこかに落としてしまったようでない。仕方なく、両手を大きく広げて高倉小路に面した小門から走り出ようとした。するとそこで、大長刀を持った一人の男に出くわした。信連は長刀の柄を足で踏みつけようと飛んだが、乗り損ねて足のももを何か所も貫かれた。闘志だけは持ち続けたが、大勢に取り囲まれて最後は生け捕りにされた。その後、役人たちは御所を探し回ったが、高倉の宮はいらっしゃらない。仕方なく、信連だけを連れて六波羅の邸へ向かった。
 清盛公は御簾の中にいた。宗盛卿は板の間に立ち、庭に連れて来られた信連を見て言った。「本当にお前は、『命令とは何の事だ』と言って斬ったのか。検非違使庁の下役人をたくさん、傷つけたり殺したりしたそうだな。よくよく罪を問いただして、その後、河原で首をはねよ」これを聞いても信連は少しも騒がず、大声で笑うと言った。「近頃、夜な夜な高倉の宮の御所を何者かが覗き見していましたが、何もたいした事はないだろうと思って用心もしていませんでした。そういうところへ、武装した者たちが押し入って来たので、『何者だ』と聞くと、『検非違使別当の命令の使いだ』と名乗るではありませんか。山賊・海賊・強盗などという奴らは、『公達の訪問です』とか、『命令の使者だ』などと名乗ると前々から聞いていましたので、『命令とは何の事だ』と言って斬ったに過ぎません。大体、完全に武装していて、切れ味のいい太刀を持っていたなら、役人たちを一人たりとも無事には帰さなかったでしょう。また、高倉の宮がどこにいらっしゃるのかは存じません。たとえ知っていたとしても、侍の身分である者が言うまいと決心した事を、問いただされたからといってどうして言う事がありましょうか」信連はこの後、一切無言を通した。その場に居合わせた平家の侍たちは、「何と強情な者だろう。あのような惜しむべき男が首を切られるとは、残酷な事だ」と言い合った。その中の一人が「あれは去年、私が同じ武者所に勤めていた時も、警備の武士たちが捕まえ損ねた強盗六人をたった一人で追いかけて、四人を斬り、二人を生け捕りにした。その時の功労によって左兵衛尉に任命されたのだ。あれこそ、一人で千人の敵に当たるような勇士と言えるだろう」と言ったので、人々は更に信連が処刑される事を惜しんだ。これを聞いて、清盛公も何か思うところがあったのだろう。結局、信連は伯耆国の日野へ流された。
 その後、源氏が天下を取ると、信連は東国へ向かい、梶原景時*2について、この事件の経緯を順々に述べたところ、感心した鎌倉殿*3能登国を信連に与えたと聞く。

*1:のぶつら

*2:かげとき:桓武平氏の末裔で、相模国鎌倉の梶原郷に住み、梶原を称した

*3:源頼朝