平家物語を読む30

巻第二 山門滅亡 堂衆合戦*1

 さて、後白河法皇天台宗の総本山・三井寺*2の公顕僧正を師範として、密教を伝え受けていた。大日経金剛頂経蘇悉地経の三部の秘法を伝え受けた法皇が、九月四日に、灌頂*3三井寺で行うとの噂が広まった。延暦寺の僧たちはこれを聞いて憤り、「昔から灌頂の前に行われる予備作法は、すべてこの比叡山で行う事が定まっている。とりわけ、山王権現が人々を教化し導くのは、予備作法及び灌頂のためである。そうであるのに三井寺でそれらを行うというのであれば、三井寺をすべて焼き払うべきだ」と言った。法皇はこれではためにならないと思い、灌頂の前に行う準備的な修行を終了するにとどめる事にした。そうとはいえやはり不本意であったので、三井寺の公顕僧正を呼んで、仏法最初の霊地である四天王寺へ向かった。境内に五智光院を建てて、宝蔵の南にある亀井堂の湧水を法水として、灌頂は行われた。
 延暦寺の騒動を鎮めようとして、三井寺での灌頂は行われなかったのだが、比叡山では堂衆*4仏道を修学する僧が不和になり、戦が度々起こった。その度に僧が切られ、延暦寺の滅亡か、はたまた国の一大事かと思われた。堂衆というのは、仏道を修学する僧に仕えていた子供が法師になった者であるが、以前、覚尋権*5僧正が金剛寿院*6の座主であった時から、比叡山を構成する東塔・西塔・横川の三塔に順番に勤務し、自ら夏衆*7と名乗り、仏に花を供える役目の者たちであった。近頃では行人とも呼ばれ、僧兵たちをも問題にしていなかったので、こうして何度にも及ぶ戦に勝ってしまった。「堂衆たちは先輩の僧たちの命に背いて戦を計画した。速やかに罰せられるべきである」と、延暦寺の僧たちは公家に訴え、武家に言いふらした。これによって清盛公が法皇の命令を文書にし、紀伊国の豪族・湯浅宗重を始めとする畿内の二千人以上の兵士が延暦寺の僧たちを援護し、堂衆を攻めた。日頃は東陽坊*8にいた堂衆は、近江国三ヶの庄に向かい、多くの軍勢を率いてまた比叡山に戻り、東塔への登り口に当たる早尾坂*9にとりでを構えて立てこもった。
 九月二十日の午前八時頃、延暦寺の僧たち三千人と官軍二千人以上の総勢およそ五千人が、早尾坂に押し寄せた。今度はいくら何でも負けまいと思っていたところが、延暦寺の僧たちは官軍を先に行かせようとし、官軍は僧たちを先に行かせようとし、各自の心がばらばらで機敏に戦おうとしない。堂衆のとりでの中から落とされた石に、僧たちも官軍も多くが打たれた。堂衆に加担した悪党というのは、諸国の窃盗・強盗・山賊・海賊の者たちである。貪欲な心がはなはだしく、命知らずの連中であるので、他人を頼らず自分一人で戦うため、今度もまた仏道を修学する僧たちは戦に負けてしまった。

*1:どうじゅかっせん

*2:園城寺の別称

*3:かんじょう:阿闍梨の位を受ける密教の儀式で、法水を頭頂に注ぐ

*4:どうじゅ:雑役に従事する下級法師

*5:かくじんごん

*6:東塔東谷にあった堂塔

*7:げしゅ:一夏の間、外出をせず安静な場所で修行する僧侶

*8:西塔北谷にある僧坊

*9:そういざか