平家物語を読む21

Eastern Phoebe

巻第二 西光被斬*1

 さて、延暦寺の僧たちが前の座主・明雲を取り返しかくまっていると聞いて、後白河法皇はひどく心の乱れを感じた。西光法師は「延暦寺の僧たちが規律や秩序そむいた無法な行いをするのは今に始まった事ではありませんが、今回の事はもってのほかと思われます。これ程、乱暴で無法な行為は今まで聞いた事がありません。十分に戒めてください」と言って、我が身が今にも亡びるであろう事にも気付かず、山王権現の御心を恐れ慎む事もせず、天皇の心を悩ませた。他人を中傷する家臣は国を乱すと言われる。というのも、芳香を放つ蘭が繁茂しようとすると秋風がこれを妨げ、王者が公明な徳行を重ねようとすると他人を中傷する家臣がこれを阻害する*2と聞く。これもそのような事を示しているのだろう。後白河法皇はこの事を、成親卿以下の近くに仕える者たちに相談した。これにより比叡山が攻められるという噂が立つと、延暦寺の僧たちの中には「天子の領有されるこの地に生まれて、むやみに天子の命令にそむくのも恐れ多い」と言って、内々に法皇の命に従う者もいたらしい。それを聞いて、妙光房にいた前の座主・明雲は僧たちに裏切りの心があると知り、「とうとう何らかの罰を受けるだろう」と心細い胸の内を語った。だが、流罪の処置はなかった。
 新大納言の成親卿は、延暦寺の騒動のせいで、かねてから考えていた個人的な野望をしばらく抑えていた。内々の相談や準備は様々に行っていたが、見せ掛けばかりの勢いでとても謀反が達成されるようには見えなかったので、あれ程頼りにされていた摂津守の息子の源行綱の心の中には、こんな事をしても何の利益にもならないという思いが生まれていた。行綱は弓袋にと成親から送られた布を衣服に仕立てて、一家の家来たちに着せつつも、落ち着きなくあれこれと思案していた。平家の繁昌の様子を見れば見る程、今すぐ簡単に滅ぼす事は難しい。悪い事に参加してしまった。もしこの企みが外に漏れたならば、この行綱がまず殺されるであろう。他人の口から漏れる前に、敵に内通して命が助かるようにしよう。行綱はそう決心した。
 治承元年の五月二十九日の夜更け、行綱は清盛公の西八条の別邸に赴いた。「行綱であるが、伝える事があるので参った次第である」と言うと、清盛公は「普段は訪ねてこない者が訪ねてくるとは何事だ。理由を聞いて来い」と言って重臣平盛国を使いにやった。行綱が「人づてには言えない事である」と言うのを聞いて、清盛公は自ら来客と応接する中門へ出て来た。「こんな深夜に何事だ」と言うと、行綱は「昼は人目があるので、夜にまぎれてやって来ました。この程、院中の人々が武器を準備し、兵士を集めているのはどのような目的のためと聞いていますか」言った。清盛公は「それは、比叡山を攻めるためだと聞いた」と、何事もないかのように答える。行綱は清盛公の近くに寄って小声で言った。「そのためではありません。一切すべて平家御一門に関わる事と聞いています」「それを法皇も知っておられるのか」「詳しく言うまでもありません。成親卿の兵士たちが呼ばれたのも、法皇の命と言われての事です」その後行綱は、俊寛がこう言って康頼はこう言い西光もこう言って、などと実際にあった以上にこれまでの事を誇張して説明し、「失礼します」と去っていった。行綱はなまじっか言わなくてもいい事を言ってしまったため、証人として呼ばれたらどうしようかと怖くなり、広い野原に火をつけたような気持ちがして、誰も追ってこないのに袴の左右を持って急いで門の外へと逃げ出た。清盛公はまず腹心の侍である平貞能*3を呼んだ。「この平家を滅ぼそうと謀反を企てる者たちが京中に満ちあふれている。一門の人々にもふれ回れ。侍たちを集めよ」これを聞いて、貞能はこの事を一門に伝え回り、侍を集めた。右大将・宗盛卿、三位中将・知盛、頭中将・重衡、左馬頭・行盛*4以下の人々は、甲冑を身につけ、弓を担いで急ぎ集まった。その他にも兵士たちが霞のような速さで集まった、その夜のうちに西八条の別邸には、馬に乗った兵士が六、七千人集まったそうである。
 翌日は六月一日だった。まだ暗いうちに清盛公は検非違使・安陪資成*5を呼んで「必ず後白河院の御所へ行け。近臣の平信業*6を呼んで、『院の近くに仕える人々の中にこの平家一門を滅ぼして国を乱そうとする計画を立てている者がいます。一人一人を捕まえて尋問して処罰します。それには法皇も関与なさらないでいただきたい』と伝えよ」と言った。資成が急いで後白河院の御所へ行き、信成を呼び出してこの事を伝えたところ、信成の顔色は青ざめた。信成がこの事を法皇の耳に入れると「さては、内々の計画が漏れたのだな」と、法皇はただ驚き困惑するばかりだった。「それにしても、これはどういう事だ」と言うばかりで、明白な返事もない。資成は急ぎ戻ってこの様子を清盛公に伝えた。「と言う事は、行綱は本当の事を言ったのだ。もし行綱がこの事を知らせなかったならばこの私はとても無事でいられなかったに違いない」清盛公はそう言って、飛騨守・景家*7筑後守・貞能に謀反の者たちを捕まえるようにと指示した。よって馬に乗った兵士が二、三百人押し寄せて、謀反の者たちを捕まえにかかった。
 清盛公はまず雑役の者を中御門烏丸にある成親卿の邸へやって、「相談しなければならない事がある。急いで訪問願いたい」と伝えた。成親卿は自分の身の上に関わる事とは露も知らずに「ああこれはきっと、法皇比叡山を攻める計画をなさっているのを中止するように取り成そうとしているのだろう。だが法皇のお怒りは深そうだ。何をしても歯が立たないものを」と言って、しなやかな狩衣をゆったりと着こなし、美しく飾り立てた車に乗り、三、四人の侍を連れて、雑役の者から牛飼いに至るまで普段よりも飾り立てた。これが最後だったと、成親卿は後になって思い知ったのだが。西八条の邸が近付いてくると、そこかしこの町に兵士があふれているのが見えた。何と大人数だ、何事であろうと胸騒ぎを覚えながら、成親卿が車から下りて門の中に入って行くと、中にも兵士がびっしりとすき間なくあふれている。中門の前には恐ろしい様相の武士がたくさん待ち構えていた。成親卿の左右の腕をつかんで引っ張り「今、縛り上げた方がいいでしょうか」と言う。すると清盛公が御簾の中から外の様子を見て「その必要はない」と言った。よって十四、五人の武士たちは成親卿を前後左右から囲んだまま縁側の上に上がらせて、きわめて狭い場所に閉じ込めた。成親卿は夢を見ているような気持ちがして、まったく訳がわからない。お供してきた侍たちは押し返されてばらばらになり、雑役の者や牛飼いは青くなって牛車を置いたまま逃げてしまった。
 そうしているうちに、近江の中将の入道蓮浄*8・法勝寺の俊寛僧都・山城守の中原基兼・式部大夫の章綱・検非違使尉の平康頼・検非違使尉の惟宗信房検非違使尉の平資行も捕らわれて連れて来られた。
 これを聞いた西光法師は自分の身の上に関わる事だと思ったのであろう。馬にむちを打ち、後白河法皇の御所へと向かった。平家の侍たちが道の途中で駆け寄ってきて「西八条の邸へ呼ばれている。必ず来い」と言った。西光が「法皇に申し上げる事があるので御所へ行く。それが済んだらすぐに向かう」と言うと、平家の侍は「腹立たしいやつだ。何を法皇に伝えるつもりか。そうはさせない」と、西光を馬から引きずり落とし縛り上げた上に、両側から抱えて西八条の邸へ引きずって行った。西光は事の始まりから中心にあった張本人であるので、特に強く戒めるために中庭に投げ置かれた。清盛公は中庭を望む大床*9に立って「清盛を滅ぼそうとした者の、なれの果ての浅ましい姿よ。そやつをここへ引き寄せよ」と、縁側の近くまで西光を連れてこさせて、履物をつけてその顔をむんずと踏みつけて言った。「以前からおまえのような最下層の者がよくも法皇のもとに仕え、本来はなれるはずもない官職を得て、父子共々身分不相応の僭越な振る舞いをするものだと思っていたが、何の罪もない天台宗の座主を流罪に処するような申し立てをし、天下に大事を起こしておいて、そればかりかこの平家一門を滅ぼそうと謀反を企てるとは。すべてをありのままに申せ」だが、西光はもとからきわめて剛胆な者だったので、少しも顔色を変える事もなく悪びれた様子も示さない。座り直してから、高笑いをして言った。「そんな事はありません。清盛殿こそ見分不相応の振る舞いをなされている。他人の前では知らないが、この西光が聞いている所でそのような事をおっしゃれるはずがありません。法皇の御所に仕える身であるので、総務を掌握する重職である執事の別当・成親卿の出す法皇の命令文書として催促された事に関与しない訳にはいきません。だからそれに関与しました。ただし聞き捨てならない事を言いなさるな。鳥羽上皇の寵臣・故藤原家成卿に取り入り、官職を得ようとしたのは誰か。都中の口さがない無頼の若者たちは、高平太*10と呼んでいた。保延の頃*11、大将軍になった忠盛殿が海賊を三十人程捕まえた功績にその子*12従四位下に叙せられた事を、当時の人々は身分不相応だと言い合った。殿上での付き合いを嫌がられた人の子で、太政大臣にまで成り上がったとは身分不相応以外の何でもない。衛士・滝口・北面などの侍になるべき階級の者が、受領・検非違使になる事は、先例や慣例にないとは言いません。どうしてこの私が身分不相応と言えるのでしょうか」西光が少しの遠慮もなくこう言ったので、清盛公は怒りの余り、何も言う事ができなかった。しばらくして「そやつの首を簡単に切るな。よくよく縛っておけ」とだけ言った。松浦太郎重俊*13がその命を受けて、西光の手足をはさみ、様々に痛めつけた。もともと言い逃れなどしなかった上、厳しく問いただされたので、西光は一つ残らず白状し、その自白を書き付けた文書は四、五枚になった。やがて「そやつの口を裂け」との命に従い、西光は口を裂かれ、都の中央部に当たる五条大路と朱雀大路が交差する場所で切られた。嫡子である前の加賀守・師高は尾張国井戸田に流されていたので、清盛公は同国の郡司・小胡麻維季*14に命じてこれを切った。次男の師経は禁獄されていたところを引き出され、六条河原で殺された。その弟の師平及び三人の従者も同じように首を切られた。これらは、卑しい者が成り上がり、関わってはならぬ事に口を出し、罪のない天台座主流罪にするような事を語り、前世の果報が台無しになったため、たちまち山王権現神罰・冥罰を受けたためであった。

*画像の鳥は、Eastern Phoebe(ツキヒメハエトリ)です

*1:さいこうがきられ

*2:貞観政要にある句を踏まえている

*3:さだよし:巻第一「殿上闇討」に登場した平家貞の子

*4:順に清盛の三男、四男、五男及び、次男基盛の子

*5:すけなり

*6:のぶなり

*7:かげいえ:藤原忠清の弟

*8:源成雅

*9:寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床

*10:たかへいだ:高下駄をはいた平家の長男の意味

*11:1135〜1141

*12:清盛の事

*13:系譜未詳:「平治物語」にも藤原信綱の処刑執行者として登場

*14:おぐまのこれすえ