平家物語を読む20

巻第二 一行阿闍梨之沙汰*1

 十禅師権現の前で、延暦寺の僧たちはまた評議を行った。「そもそも私たちは粟津に向かい、天台座主を取り返すべきである。ただし検非違使の役人と流刑地に護送する役人が付いているだろうから、何の障害もなく座主を取り返す事はなかなか難しいと見える。山王権現の力に頼むしかない。特別の支障もなく取り返せるのならば、ここでまずそのよきしるしを見せてください」そう言って、老僧たちは一生懸命に祈った。そのとき、無動寺*2の僧・乗円の息子で十八歳になる鶴丸が、急に全身に汗を流して苦しみながら狂ったように前へ出た。「私は十禅師権現が乗り移った者である。末代とはいえ、どうしてこの比叡山の座主を他国へ移さねばならないのか。幾度生まれ変わり世を重ねてもこの情けない思いは消えまい。そのような事になっては、私がここに鎮座していても何の意味もない」そう言って、左右の袖を顔に当てて涙をはらはらと流す。僧たちはこれを怪しんだ。「本当に十禅師権現のお告げであるのならば、私たちはその証拠が見たい。これを一つも間違えずにもとの持ち主に返して下さい」と言って、四、五百人の老僧たちは手に持っていた数珠を大床*3に投げ上げた。するとこの者は走り回って数珠を集め、一つも間違えずに持ち主に配った。僧たちは神の霊験の著しい事の尊さに、皆が感激して涙を流した。「では、出向いて座主を取り返してきなさい」との声が上がるやいなや、皆は霞のようにそこから立ち去った。それからは、志賀・辛崎*4の浜づたいの道を歩き続ける者や、山田・矢ばせ*5から湖に舟を押し出す者もいた。これを見て、状況が厳しくなるのを知った検非違使の役人と流刑地に護送する役人は、皆あちこちに逃げてしまった。
 延暦寺の僧たちは近江の国分寺へ向かった。前の座主・明雲は非常に驚いて、「勅命により勘当された者は太陽や月の光に当たる事もできないと言う。ましてや、すぐに都から追い出せとの法皇天皇からの命令であったのだから、少しの猶予も許されない。皆、速やかに比帰りなさい」と言った。そして橋の近くに歩み寄って「三大臣になりえる家に生まれ、比叡山延暦寺の僧坊に入ってからこのかた、天台宗を広く学び、真言宗をも修めた。ただ比叡山の繁栄のみを思っての事だった。また、国家のために懸命に祈り、僧たちを心からいつくしみ育てた。両所三聖*6はきっとご覧になっているでしょう。我が身に恥じるところはない。無実の罪により遠流という思い罰を受けるのであれば、世も人も、神も仏さえも恨む必要はない。ここまで訪ねてきた僧たちのありがたい志に報いる事ができないのが心残りである」と言って、黄色がかった淡紅色の僧衣の袖で涙をふいた。これを聞いて、僧たちも皆、涙を流した。御輿を差し出して「さあ行きましょう」と言っても、明雲は「昔は三千人の僧の座主であったが、今はこのような罪人の身である。どうして身分の高い僧侶や知恵の深い僧たちに担がれて戻る事ができようか。もし戻るとしても、わらじを履いて皆と同じように歩いて戻るつもりだ」と言って、乗らなかった。そこに比叡山の西塔に住む僧で阿闍梨*7・祐慶と言う荒法師がいた。身長は七尺*8程もあり、黒く染めた革でつづった鎧には鉄の札をまじえてあり、腰を覆う防具を長めに着ていた。脱いだ兜を身分の低い僧に持たせて、白柄の大長刀を杖にして「開けてくだされ」と僧たちを押し分けて、明雲の前にやって来た。目を大きく見開き、厳しい視線で明雲を見つめて「そのような心持でいらっしゃるから、このような目にあわれるのです。さっさとお乗りください」と言うと、明雲は恐ろしさの余り、急いで御輿に乗った。僧たちは明雲をつれて帰れる事が嬉しくて、身分の低い僧だけではなく身分の高い僧侶までもが御輿を担ぎ、うめいたり叫んだりしながら比叡山へ向かった。他の人は交代したけれども、祐慶は交代せずに御輿の前方の棒を持って担ぎ、長刀の柄も御輿の棒も折れそうなくらいの非常に険しい東坂本から比叡山の東塔に至る坂道をも、平地を行くかのように進んだ。
 比叡山東塔にある大講堂に着くと、僧たちは御輿を庭に置いて「さて私たちは粟津に向かい座主を取り返した。既に天皇の命が下りて流罪になった人を、取り返して座主として推薦するのはどうだろうか」と、評議を行った。阿闍梨・祐慶は先程と同じようにまた前へ出てきた。「ここ比叡山は日本で無双の霊地であり、国家の安泰を祈願する仏教の道場である。山王権現の威厳にあふれ、仏の教えと帝王の政治とが牛の角のように並び行われ優劣がない。よって僧たちの見識においても他に比べられない程、優れており、身分の低い僧でさえも世間は侮ることができない。ましてや明雲殿は貴い知恵を持ち、三千人の座主であり、果ては道徳にかなったよい行いが積もり積もって比叡山全体の授戒の師であった。無罪であるのに罰を受けることに対して、比叡山・都の人々は、興福寺園城寺から馬鹿にされるよりも、憤慨した。今、天台宗真言宗を共に修めた師を失っては、学問を修める多くの僧侶たちが刻苦して勉学に励むことが難しくなる。よって、この祐慶が首謀者として、禁獄・流罪の罰を受け、首をはねられよう。これも今生の名誉、冥途の思い出になるだろう」祐慶はそう言って、はらはらと両目から涙を流した。僧たちは「その通りだ」と同意した。それから以後、祐慶はいかめしく恐ろしい法師という意味で「いかめ房」と呼ばれるようになった。その弟子の恵慶は、その時代の人々に「小いかめ房」と呼ばれた。
 延暦寺の僧たちは前の座主・明雲を東塔の南谷にある妙光房に連れて行った。突然起こった思いがけない災難からは、たとえ仏菩薩が人間の姿を借りて現われたと言われるような高僧でも逃れることができないのだろうか。というのも昔、唐の玄宗皇帝の安泰を祈祷する僧で、阿闍梨・一行と言う者がいた。玄宗の后・楊貴妃との浮いた噂が世間に知られるようになり、昔も今も大国も小国も人の言う事ははしたないもので、その疑いにより遠い西の国へ流されたのだった。その国への道は三つあった。輪池道と言う名の、帝王が通る道。幽地道と言う名の、身分の低い者が通る道。暗穴道と言う名の、重い罪を負った者を追いやるための道。よって大きな罰を負った一行は暗穴道を行った。そこは七日七夜、太陽の光も月の光も見ることのない道である。真っ暗で人の姿もなく、歩きであるのにその暗さに道に迷う程で、木々はうっそうと生い茂っていた。聞こえるのは谷間からの鳥の声だけで、僧衣は露で濡れた。無実の罪により遠流と言う重い罰を受ける事を天は哀れんだのか、星は九曜の形を成して一行を守った。その時一行は、右の指を噛み切って左のたもとに九曜の形を写した。和漢両朝に、真言宗の本尊としてある九曜の曼荼羅がこれである。

*1:いちぎょうあじゃりのさた

*2:比叡山東塔の南にある不動明王を本尊とする寺

*3:寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床

*4:共に現滋賀県大津市

*5:共に現滋賀県草津市

*6:山王七社の大宮・二宮の両所に、聖真子を加えて「三聖」

*7:弟子の師範となる高僧の敬称

*8:2.21メートル