平家物語を読む16

巻第一 願立*1

 神輿は客人の宮*2に入れられた。客人の宮は白山の別当寺で延暦寺の末寺であり、言わば父子の間柄である。訴訟が成功するかどうかはまだ分からないが、生前に父子であった二神の喜びはただこの対面の一事にあった。浦島の子が七代後の子孫に会える事より、母の胎内に六年いた者が父・釈迦の出家後に生まれ、後に仏門に入り霊山で父に再会した事よりも喜ばしい事であった。延暦寺の僧たちがぞくぞくと集まり、山王七社の神官も袖を連ね、一刻一刻、経文を読み供養した事は、言葉では言い表せないほどの喜びである。
 延暦寺の僧たちは、加賀の国司・師高は流罪国司代官・師経は禁獄に処されるべきだと天皇に申し上げたが、なかなか裁決されなかった。その間、しかるべき公卿・殿上人は「ああ、さっさと裁決すればいいものを。昔から延暦寺の起こす訴訟は他のものとは異なっている。大蔵卿の為房*3・太宰権帥の季仲*4などは共に皇室の重臣であったのに、延暦寺の起こした訴訟によって流罪となった。師高などものの数ではないのに、詳細に渡って詮索するまでもないはずだ」とささやき合ってはいたものの、大臣は給与を心配して口を開かず、小臣は罪を恐れて何も言わずと、それぞれが黙っていた。以前、白河院も「賀茂川の水*5、双六の賽、比叡山の僧たち、これらにはいつも手を焼いている」とおっしゃっていたそうだ。鳥羽院の頃に越前の別当寺・平泉寺が延暦寺の末寺になったのは、鳥羽院が「本来は比叡山に帰依していないので、道理に合わない事だが合った事とする」とおっしゃって命を下されたからだったと言う*6大江匡房*7卿が「僧たちが宮中護衛の役人の詰所へ神輿を振りかざしてまで訴えてきた時、上皇はどのような処置をなさるおつもりですか」と聞くと、白河上皇は「どうしても延暦寺の訴訟を黙って放っておくわけにはいかない」とおっしゃったそうだ。
 また、去る嘉保二年の三月二日、堀河天皇*8の頃、美濃守である源義綱朝臣美濃国に新しく設けた庄園を廃止した時に、山寺に長く住み修行した僧を殺害した。これによって山王の神主、延暦寺の事務職員など、全部で三十人以上が訴状を持って宮中護衛の役人の詰所へ向かったところ、関白・藤原師通殿は中務権少輔の源頼治*9に命じて、侵入をさえぎらせた。頼治の従者が矢を放ち、即座に八人が殺され、十人以上が傷を受けた。社司・諸司らは急いで四方に散った。延暦寺の上座の僧官たちが事の詳細を天皇に申し上げるために比叡山を下りてやって来るという噂が流れると、武士・検非違使たちは比叡山の西麓に馬を走らせて、すべて追い返した。
 この事件の裁決が遅いので、延暦寺では山王七社の神輿を東塔の本堂に振りかざし、本尊の前で大般若波羅蜜多経六百巻を七日間読み通し、関白殿を呪詛した。最終日、満願の啓白を勤める者として、その頃はまだ内供奉であった僧侶・仲胤*10が高座に上って鐘を打ち鳴らし、法会の終わりにその趣旨を申し述べる言葉として「私たちを幼少の頃から育成して下さった神々よ、どうか後二条の関白殿*11鏑矢*12を一つ放ってください、大八王子権現*13」と、声高らかに祈った。その夜、即座に不思議な事があった。八王子の御殿から鏑矢が音を鳴らしながら都を目指して飛んで行く様子を、人々は夢で見たのだった。明くる朝、関白殿が御所の戸を上げていると、そこにたった今山から取ってきたかのような露に濡れたしきみが一枝、刺さっていたのは恐ろしい事だった。程なく山王による罰として、関白殿は重い病にかかった。母親である摂政関白・藤原師実殿の妻である北の政所は悲嘆する余り、目立たない粗末な身なりをして身分の低い者がするように、山王権現にこもって七日七夜の間、祈願を行った。祈願のための捧げものとして、柴田楽*14を百番、祭礼の行列に異形の服装で参加することを百番、競馬・流鏑馬・相撲をそれぞれ百番、仁王経・薬師経を購読する購会をそれぞれ百座、手の平二つ分の大きさの薬師如来像を百体、人と同じ大きさの薬師如来像を一体用意し、更に釈迦像・阿弥陀仏像それぞれの造立の供養をなされた。その心中には三つの立願があったが、人の心の中ゆえ誰も知る事はなかった。また、満願に当たる第七日目の夜、不思議な事があった。八王子権現にいくらでもいる参詣者の中に、遠くみちのくからやって来た童形の巫女がいたのだが、この巫女が夜半頃、急に気絶した。その場から運び出して回復を祈ると程なく息を吹き返し、やがて立ち上がって舞いを舞った。人々は不思議な霊感を受けてこれを見ていた。一時間ほど舞い続けた後、巫女に山王権現が乗り移られて、さまざまなお告げをなされた。「五道*15に生きるものたちよ、篤と聞きたまえ。北の政所が七日間、我が前にて祈願を行った。立願は三つある。一つは、関白殿の寿命を延ばしてほしいとの事だ。もしそれが叶えば、建物にこもっているもろもろの不具者たちに混ざって、千日間、朝晩と神社に奉仕しようと言うのである。世間に少しも気兼ねなく過ごしてきた北の政所のような方が、子を思う道に迷い込んだ末、むさくるしく気味の悪い事も忘れて見苦しい不具者たちに混ざって千日間、朝晩と神社に奉仕しようとは、まことに感動した事よ。二つ目は、大宮権現の前の谷川にかかる橋から八王子権現まで、回廊を作ってつなぐと言う。雨の日も太陽の照る暑い日も、三千人の僧たちはその間を行き来している。それを見ていると気の毒な思いがするから、回廊があったならばどんなにかいいだろう。三つ目は、もし関白殿の寿命を延ばしてもらったならば、八王子権現にて毎日、法華経について論議問答を行う法会を途切れることなく行うと言う。三つとも並大抵の事ではないが、そのうち最初の二つはしてもらわなくとも構わないが、三つ目の法華経の法会については、本当にやってもらいたく思う。ただし今回の訴訟はまったく簡単な事であったのに、裁決がない上に神主や下級の僧が矢で殺されたり傷を受けたりした。泣きながら訴えてきたこの余りに辛い出来事を、彼らはいつまでも忘れないだろう。それに彼らに当たった矢とは、とりもなおさず山王の神に姿を変えて現れた仏の肌に当たったのだ。本当か嘘か、これを見て知れ」そう言うと、山王権現が乗り移られた巫女は肩から衣服を脱いだ。するとその左わきの下に大きな土器の口程の穴が開き、肉がえぐりとられているのが見えた。「これが余りに辛いので、どれだけ申しても立願の初めから終わりまですべては叶えられない。法華経論議問答の法会をきっとやってくれるのなら、関白殿の命を三年、延ばしてやろう。それを不足と思うのであれば、仕方がない」そう言って、巫女に乗り移られていた山王権現は昇り去られた。関白殿の母はこの立願の事を誰にも話さなかったので、誰かが漏らしたのではと疑う事は少しもなかった。心の中で願った事がそのままお告げの中にあったので、心に深く思い当たり、とりわけ尊い思いがした。泣きながら「たとえたった一日寿命が延びただけでも有り難く存じますのに、まして三年も延ばしていただけるのなら、当然有り難く存じます」と言って、帰られた。それから急いで都へ向かい、関白殿の領地である紀伊国の田中庄と言う所を、八王子権現へ寄進した。それから始まった法華経論議問答の法会は今の世に至るまで毎日行われ、途切れた事はないと聞く。
 そうしているうちに、関白殿は病が軽くなられ、以前のご様子に戻られた。身分の高い者も低い者も関係なく喜び合ったが、三年はまるで夢のように過ぎて永長二年になった。六月二十一日、関白殿は髪の生え際に悪性の腫瘍ができて床に伏した。そして二十七日、三十八歳でついにお亡くなりになった。あれほど気性が激しく、理性が強い人であったが、あっという間に病気が進み危篤になったので、皆はその命を惜しみ悲しんだ。母・北の政所にとって、四十歳にもならない息子・関白殿に先立たれたのは悲しい事であった。必ずしも父より後に死ななければならないという訳ではないが、生ある者は必ず死ぬというこの世の定めに、あらゆる徳を完全に備えた釈尊や十地*16を極めて等覚の地位に達した菩薩の力も及ばなかったのである。慈悲の心を持つ山王権現も、衆生に利益を与えるための便法として、罰は与えなかったものと思われる。堀河天皇*17の頃の事であった。

*1:がんだて

*2:まろうとのみや:山王七社の一つ

*3:1092:下人への暴行により阿波へ左遷

*4:1105:悪僧を捕まえる際に山王の神官を殺害して周防へ流刑

*5:たびたび氾濫したので

*6:盛衰記に、鳥羽院の頃、平泉寺を園城寺興福寺側)に付けようとしたところ延暦寺側が反発したので無理に延暦寺の末寺にされたとある

*7:きょうぼう

*8:第73代の天皇

*9:よりはる

*10:ちゅういん

*11:藤原師通

*12:空中を飛ぶ時、響きを発する矢

*13:山王七社の一つ

*14:流行の民間芸能

*15:地獄・畜生・餓鬼・人間・天上界

*16:菩薩の修行の最後の十段階

*17:第73代の天皇