平家物語を読む15

巻第一 俊寛沙汰*1 鵜川軍*2

 この法勝寺の俊寛と言う者は、京極の村上源氏・雅俊*3卿の孫で、仁和寺の院家である木寺の僧侶・寛雅の子であった。大納言であった祖父・雅俊卿はそれほど武人として恵まれた家柄ではなかったが、あまりに立腹しやすい短気な人で、京極の宿所の前を人が通るのでさえも簡単には許さず、いつも歯をくいしばり怒った様相で中門にたたずんでいた。こういう人の孫であるから、俊寛は僧ではあっても獰猛で思い上がった人間であり、謀反のような悪い事にも力を貸したのだった。
 成親卿は源行綱を呼んで、「そなたには片一方の大将を頼みたい。この謀反がやり遂げられたならば、国でも庄園でも希望するだけあげましょう。これはまず、弓袋のために」と言って、五十反*4の白布を渡した。
 安元三年の三月五日、内大臣藤原師長殿が太政大臣になられたために、大納言の源定房卿を飛び越えて重盛殿が内大臣になられた。大臣で近衛大将を兼任することはめでたいことであったので、すぐにその披露宴が行われた。主賓は大炊御門の右大臣・藤原経宗*5公だったと聞く。師長殿の家は左大臣が昇進の限度であったが、父の藤原頼長殿が保元の乱を起こした時に左大臣だったためその悪例を避ける意味で、左大臣を越えて太政大臣に任じられた。
 北面の武士は、昔は存在しなかった。白河院の頃に初めて置かれるようになり、それ以来、六衛府*6の者が多く配属された。中でも、藤原為俊・盛重*7は千手丸・今犬丸と呼ばれた幼時より、共に白河院の寵童として引き立てられた。鳥羽院の頃には、源季教・季頼*8が父子共々皇室に引き立てられ、臣下の所望を天皇上皇に取り次ぐ事もあったなどと聞くが、皆、身分をわきまえて振舞っていた。が、この頃の北面の武士は身分不相応な事はなはだしく、公卿・殿上人をも問題とせず、礼儀作法もなっていなかった。侍を任じた下北面から四位・五位の諸大夫を任じた上北面に上がり、更には六位に叙せられて殿上の間に出入りする事を許された者もいた。このような事が行われるうちに、北面の武士の中でも思い上がる心が頭をもたげ、謀反のような悪い事にも力を貸すようになったのだった。その中に、故信西に仕えていた藤原師光・成景*9と言う者たちがいた。師光は阿波国の在庁官人*10、成景は京出身で共に素性のいやしい下等の者たちだった。二人は力仕事の下僕として公家や武家に仕えたり、もしくは下級の侍として親王・摂関・大臣家などに仕えたりしていたが、利口でよく気がきいたので、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉として二人一度に衛門尉になった。信西が殺された時、二人は共に出家して左衛門入道・西光、右衛門入道・西敬となり、その後も院の財産を管理する重要な役を務めた。
 その西光の子で師高*11と言う者がいた。これも賢い者で、五位になってもなお検非違使尉を勤め、安元元年十二月二十九日の人事異動で加賀守になった。師高の行う国務は、法令や礼式に背く事を気ままにやり散らしたり、神社・仏寺・権力や勢力のある家の庄園や所領を没収してとり潰したりと、はなはだ見苦しい事ばかりだった。召公*12の時代からは遠く離れ、たとえその善政に及ばないとしても穏便な政治を行うべきである。が、このように思いのままに振舞っているうちに、翌年の夏の頃、国司・師高の弟で判官・師経*13加賀国司の代官になった。師経が京都から加賀へ着任して間もなくの事だった。国司の役所の辺り*14に、鵜河という山寺があった。寺僧たちがちょうど湯を沸かして浴びているところに、師経の一行が乱入して僧たちを追い出た。そして自分たちが湯を浴び、身分の低い者たちには馬を洗わせたりした。僧たちは怒りをなして、「昔から国府の役人たちはこの寺の領内に立ち入ることはない。おとなしく先例に倣って、押し入りや乱暴をやめよ」と言った。師経が「これまでの代官は思慮がたりなかったから馬鹿にされたのだ。この私はそうはいかない。ただ法に従っていればいいのだ」と言うやいなや、僧たちは国府の役人たちを追い出そうとし、国府の者たちはその折をいい機会と見て乱入しようとした。打ち合い、たたき合いしているうちに、師経の大事な馬の足が打ち折られた。その後は互いに弓矢や武器を持って、弓をいったり切り合ったりして数時間戦った。そのうち国府の者たちは適わないと思ったのだろう、夜になるのを見計らって退散した。がその後、加賀国の官庁に勤めるものたちを総勢、一千人以上集め、馬に乗って鵜河に押し寄せて、僧の宿舎を一軒も残さず焼き払った。鵜河の寺は白山本宮の末寺であった。この暴挙を訴えようとして、智釈・学明・宝台坊・正智・学音・土佐阿闍梨ら、白山末寺の中心的な老僧たちが立ち上がった。白山三社・八院の者たちほとんどが集まり、総勢二千人以上で同年の七月九日の夕方、国司代官・師経の館の近くまで押し寄せた。今日はもう日も暮れた、戦いは明日にと決めてその日は進まずに留まった。露を含んだ秋風は弓を射る際に前に出る左の袖を翻し、雲間を走る稲妻は兜の鋲を光らせた。その様子を見て、代官・師経は適わないと思ったのだろう、夜のうちに京へ逃げた。明くる日の朝六時頃、白山の一行は館に押し寄せて、戦い前の威嚇の声をどっと上げた。館の中からは音一つ聞こえてこない。中を調べさせると、調べた者は「皆、逃げています」と言う。白山の大衆はどうする事もできず、その場を引き上げた。ならば延暦寺へ訴えようと*15、白山中郡の神輿を構えて比叡山に向かって勢いよく担ぎ上げた。八月十二日の正午頃、白山のこの神輿が比叡山の東麓である坂本に着いたと聞くやいなや、北国の方で激しく鳴り始めた雷が都に向かってやってきた。白い雪が降りそそぎ、比叡山も京の町も常緑樹に覆われた緑の山もすべてが埋め尽くされた。

*1:しゅんかんのさた

*2:うがわいくさ

*3:がしゅん

*4:一人分の衣服の量

*5:つねむね

*6:近衛・衛門・兵衛の各左右二府

*7:ためとし・もりしげ

*8:すえのり・すえより

*9:もろみつ・なりかげ

*10:地方国府で実務を行った役人

*11:もろたか

*12:周の文王の庶子で、嫡子次男・周公とともに長男・武王の子である成王を補佐した

*13:もろつね

*14:現在の小松市鵜川町・遊泉寺町

*15:平安末期に白山の中宮平泉寺・本宮白山寺は延暦寺の末寺になった