近頃、平家物語を読むようになって、いろいろと思うところが多い。これは私にとって、初めて一から読む日本の古典でもあるのだが、まずその根底に流れる仏教思想に触れると、日本人である自分の思想形式の大本を垣間見るようで安堵感をも覚える。
また、このような大作を読む時間を持てること、その環境にも感謝したい。と、安易にも思ったが、実はこれはただ時間があるかないかだけの問題ではなさそうだ。というのも、自由になる時間があふれていた学生時代には、とてもこのような大作に取り組もうという気にはならなかったからだ。その頃はむしろ、物事を知りたい気持ちばかりが先行して、読む本の冊数を誇ったり、あれもこれもと様々なジャンルの本に手をのばしてみたりと、そのくせ実になったかというと首を傾げてしまう。
いいものとそうでないものの区別が分かってきたのは、ここ数年のことである。これはひとえに年齢のなせるところが大きいのではないか。「年を経ねば分からないことがある」、という言葉をつくづく噛みしめるこの頃である。
「荘子」に孔子が説く「陸沈」という言葉があるそうだ。これは「大隠は市に隠る」と同義とされるが、小林秀雄はこの「陸沈」と有名な「十五歳で学問に志し、――七十歳には思うままに振舞っても道をはずれないようになった」とをなぞらえて、以下を述べている。
――(孔子は)年齢は真の学問にとっては、その本質的な条件をなすと言ったのである。世の中は、時をかけて、みんなと一緒に、暮らしてみなければ納得出来ない事柄に満ちている。実際、誰も肝腎な事は、世の中に生きてみて納得しているのだ。この人間生活の経験の基本的な姿の痛切な反省を、彼は陸沈と呼んだと考えてみてはどうだろう。
ところで、生きることを突き詰めれば皆、同じ悩みに行き着くだろう。だからこそ、先人の智慧を素通りする理由はない。古典を読んでみて、そんな当たり前のことを強く感じた。
――引用は、「還暦」小林秀雄 考えるヒント (2) (文春文庫) より