平家物語を読む1

娑羅双樹

はじめに

―どんな種類の述懐も、行きついて、空しくなる所は一つだ。無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会いに行きつく。これを「平家」ほど、大きな、鋭い形で現した文学は後にも先にもあるまい。―途中略―また其処に、日本人なら誰でも身体で知っていた、深い安堵があると言えよう。
――「平家物語小林秀雄 新装版 考えるヒント (文春文庫) より

最近、上記引用文以外にも続けざまに「平家物語」について書かれた文章に出会い、「平家物語」を読み始めた。学生の頃、授業でほんの少し触れただけで知ったような気になっていたことが、恥ずかしいことだと思い知らされる。読めば読むほど、深く感じるところが多い。
現代語訳は、自然な日本語に近づけるために、読点や単語の位置、語尾の形を変えているところもある。
参考文書:平家物語〈1〉 (岩波文庫)平家物語〈2〉 (岩波文庫)平家物語〈3〉 (岩波文庫)平家物語〈4〉 (岩波文庫)

巻第一 祇園精舎

 祇園精舎の鐘の音は諸行無常の響を持つ。娑羅双樹の花の色は盛者必衰の道理をあらわす。思い上がった者も長く続くことはなく、ただ春の夜の夢のようなものだ。威勢のある者もいつかは滅びる、もっぱら風の前の塵のようなものだ。遠く外国の例を尋ねてみると、秦の宦官・趙高、西漢の成帝の后の父・王莽、梁の武帝の寵臣・周伊、唐の玄宗の臣・禄山など、彼らは皆旧主先皇の政治にも従わず、娯楽ばかりを追い求め、忠告をも省みず、天下が乱れている事に気付かず、民衆のなげきを知ろうともしなかったので、長く続くことなく滅びた者たちである。近年の本朝をうかがってみると、承平天慶の乱平将門藤原純友、康和年に乱を起こした源義親*1平治の乱藤原信頼など、彼らは思い上がる心も威勢のいい事も、皆それぞれに甚だしかったが、最近では六波羅の入道で前の太政大臣である平朝臣清盛公と申す人の様子は、伝え聞いてはみたが、想像もつかず言葉でも表しえないほどだ。
 その先祖を尋ねてみると、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原*2親王から九代の子孫に当たる讃岐の守・平正盛の孫である刑部卿平忠盛朝臣の嫡男である。葛原親王の御子・高見王*3は無官無位で亡くなられた。その御子高望王*4の時、初めて平の姓をいただいて、上総介になられたおり、すぐに皇族を離れ臣下となった。その子である鎮守府の将軍・平義茂*5は後に国香*6と名を改めた。国香から正盛にいたるまでの六代は、諸国の政務を執ったけれども、殿上人として選任されることはまだなかった。


承平天慶の乱:931〜947 平将門藤原純友の反乱。将門は関東に勢力を広げていたが、藤原秀郷平貞盛により敗死。純友は西国で海賊討伐を試みたが敗死。律令国家の崩壊を象徴した事件。
保元の乱:1156 皇室における崇徳上皇後白河天皇の対立、摂関家における藤原頼長と忠通の対立が激化。崇徳、頼長側に源為義の軍が、後白河、忠通側に平清盛源義朝の軍が主力となり戦ったが、崇徳側が敗れた。武士の政界進出の契機となった事件。
平治の乱:1159 保元の乱後、藤原通憲信西)と組んで勢力を伸ばした平清盛と、藤原信頼と組んだ源義朝との戦い。源氏側が敗れ、平氏政権が出現した。

*1:ぎしん

*2:かずらはらの

*3:たかみのおう

*4:たかもちのおう

*5:よしもち

*6:くにか