徒然草を読む116

第百四十二段

 思いやりがないように見える者でも、時によい一言を言う事がある。ある関東の恐ろしげな荒武者が、同輩に対して、「お子さんはいらっしゃるのですか」と尋ねた。「一人もおりません」と答えたのに対して、「さては、同情の心をご存知ないのですね。情けのない心をお持ちでいらっしゃるでしょう。とても恐ろしい。子がいてこそ、何事においての情けも自然と分かってくるものです」と言ったというが、それももっともな事である。親子の関係は恩愛*1の道であるからこそ、このような者の心にも、慈悲が生まれるのだろう。亡き親の後世を弔う心がない者も、子を持って初めて、親の心を思い知るものだ。
 世を捨てた身一つの人が、心や行動を束縛するものの多い人が、万事にへつらい、望みが限りないのを見て、ひどく軽蔑するというのは、間違っている。その人の心になって考えてみれば、愛する親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みをもしてしまうという事もある。そうであるので、盗人を戒め、過ちを罰するよりは、世の中の人が飢えず、寒くないように、世を治めてほしいものである。人というものは、定まった財産がない時は、定まった心を持つ事ができない*2。人というものは、窮すると盗みをするようになる*3。世が治まらず、凍えと飢えという二つの苦しみがあるうちは、罪を犯す者が絶える事はない。人を苦しめ、法を犯させて、それを罪科に処するというのは、不憫な行いである。
 さて、それではどのようにして人に恩恵を与えるかというと、上の人々が贅沢をしたり、無駄使いしたりするのを止め、民衆をいつくしみ、農業を奨励すれば、下の人々にも利となる事は疑うべくもない*4。衣食が常に満たされている状態で過ちを犯すような人を、真の盗人と言うべきである。

*1:夫婦・親子の間で、恩や愛情に執着する感情をいい、仏教では捨て去るべきものとされる

*2:孟子」梁恵王章句上

*3:孔子家語」顔回、「論語」衛霊公

*4:「帝範」務農第十