徒然草を読む108

百三十四段

 高倉上皇*1の法華堂に常住する法華三昧*2を修行する僧に、某の律師とかいう者がいた。ある時、鏡を手に取り、顔をつくづくと見たところ、己の容貌が醜く、見苦しい事が余りにも情けなく思われて、鏡さえも疎ましいような気がしたので、その後は長い間、鏡を恐れて、手に取る事さえせず、また、人と接する事もしなかった。法華堂の勤行に加わる以外は、閉じこもっていたと聞く。何とも立派ではないか。
 賢そうに見える人というのも、他人の事ばかりあれこれと評価し、自身の事は知らないものである。己を知らないのに、他人は知っているという道理があるはずはない。よって、己を知る人を、物の道理を知る人と言うべきである。容姿が醜い事も知らず、心が愚かである事も知らず、芸が拙い事も知らず、己の身が取るに足らないものである事も知らず、年が老いている事も知らず、病に侵されている事もしらず、死が近い事も知らず、仏道を修行が至らない事も知らない。己の非を分かっていない上は、当然、他人からの非難も理解できない。ただし、容姿は鏡で見る事ができ、年は数えれば知る事ができる。己の身の事を知らない訳ではないが、どうすればいいのか分からない上は、知らぬも同然と言っていいだろう。容姿を改善し、年齢を若くせよという意味ではない。己が拙いという事を知ったなら、どうしてすぐに引退しないのか。老いたと知ったなら、どうして静かに過ごして、身を落ち着けようとしないのか。仏道の修行が疎かだと知ったなら、どうしてその事をよく考えようとしないのか。
 総じて、好かれていないのに人々に交わるのは恥である。容姿が醜く、思慮に乏しいのに出仕し、無智であるのに大才の人に交わり、芸が下手であるのに上手な人の座に連なり、雪のように白い頭で年の盛りの人と並び、ましてや、叶うはずもない事を望み、できるはずもない事を憂い、来る当てもない事を待ち、他人をむやみに恐れ、他人にやたらと媚びる。この恥は他人に与えられた恥ではない。やたらと欲しがる心に引かれて、自ら己の身を恥辱しているのである。欲しがる事を止めないのは、命が終わるという大事が、今ここに来ていると、少しも自覚してはいないからである。

*1:第80代天皇

*2:実相中道の理を諦観する事