徒然草を読む71

第八十七段

 下男に酒を飲ませるという事は、十分に注意されるべき事である。宇治に家を構えるある男は、妻の兄という縁から、京の具覚房*1という優雅な遁世者と、親しく交際するようになった。ある時、男が遣わせた迎えの馬が到着すると、具覚房は「長い道のりになる。馬を引く下男に、まずは酒を一杯飲ませよ」と、下男に酒を差し出した。下男は何度も盃を受けて、ぐいぐい飲んだという。
 下男は太刀を帯びて勇ましい様子である。頼もしく思われ、具覚房は供として連れて行く事にした。道中、木幡*2の辺りで、奈良の僧*3が、たくさんの兵士を引き連れているのに行き合った。すると、この下男が、「日の暮れた山の中で、怪しい。お止まり下され」と言って、太刀を引き抜いたのである。相手も皆が太刀を抜き始めた。矢をつがえようとする者までいる。あわてて具覚房が手を擦り合わせ、「正気を失うほど酔っている者でございます。どうか、お許しいただきたい」と言ったところ、相手は口々に嘲りながら通り過ぎた。下男は具覚房に向かって、「御房はつまらぬ事をされるものですな。私は酔ってなどおりません。功名を上げようとして抜いたこの太刀を、御房は無駄になされたのです」と怒りながら言うと、具覚房をめった切りにして馬から落としてしまった。
 具覚房が「追いはぎがいるぞ」と騒ぎ立てたので、里の人々が大勢やって来て男に立ち向かった。下男は「私がその追いはぎだ」と言って、あっちへ走りこっちへ走りと切り回り、多くの人に傷を負わせ、押し倒しては縛った。馬は血しぶきを浴びて、宇治大路にある具覚房に馬を遣わせた男の家の中に走り入った。驚いた男が、男たちをたくさん駆けつけさせると、男たちはくちなしの生えている野原にうめき倒れていた具覚房を探し出して、担いで家に帰って来た。こうして具覚房は何とか危うい命を助かったが、切りつけられた腰のせいで、不自由な身体となった。

*1:ぐかくぼう

*2:こはだ:現京都市伏見区大亀谷付近

*3:興福寺東大寺の僧