平家物語を読む194

灌頂巻 大原御幸*1

 このような中、文治二年の春の頃、後白河法皇建礼門院の大原の閑居へお見舞いに訪れたいと思われたが、二月・三月の頃は風が激しく、寒さもまだまだ残っており、峰を覆う白雪も谷の氷の融けずに残っていたため先送りとなった。春が過ぎ夏になり、葵祭*2も済んだので、法皇はまだ夜が明け切る前に、大原の山奥へと出発された。非公式の訪問だったが、徳大寺*3、花山院*4、土御門*5以下の公卿六人、殿上人八人、北面の武士少々がお供をした。鞍馬街道を経由しての道程であったので、あの清原の深養父*6の山荘を寺とした補陀落*7、小野の皇太后*8の旧跡をご覧になってから、法皇は御輿に乗り込まれた。遠い山にかかる白雲が、散ってしまった桜の形見のように見える。桜の木の梢は青葉になってしまったが、ところどころに残る花が春を名残惜しく思わせる。時は四月二十日過ぎ、夏草の茂みを分け入って進まなければならず、初めての道程であるので見慣れた風景もない。人が足を踏み入れた跡もない事が、哀れに思われて仕方がなかった。
 西の山の麓に、一棟の御堂が現れた。これが寂光院であった。古めかしく作られた池や植え込みなどを見るにつけても、由緒ある所のようだ。「甍が割れているためもれ入る霧が、絶え間なく焚かれた香の煙のようである。扉が朽ちているため差し込む月の光が、常夜灯のようである」というのも、このような所の事を言うのであろう。庭には若草が茂り、青柳はその糸のような枝を風になびかせている。池に漂う浮き草は、水の中に錦の布地をさらしているかのように見えた。中島の松にからまる藤つるは薄紫の花をつけ、青葉混じりの遅桜は初花の時よりも素晴らしい。岸には山吹が咲き乱れ、幾重にもなった雲の隙間から聞こえてきたほととぎすの一声も、法皇の訪問を待ち焦がれていた様子であった。法皇はこれらをご覧になった感慨を歌に詠まれた。
   池水にみぎはのさくら散しきてなみの花こそさかりなりけれ*9
振り返ると、岩の間から水が滴り落ちている。その音までも、由緒ある所と思わせる何かを持っていた。緑のつたがからまる垣根、眉墨を引いたようにゆるやかな弧を描く青い山並み、画に描こうとしても筆でその美しさを表すのは難しいと思われるほどであった。
 建礼門院の庵室は、軒に朝顔がからまり、忘れ草*10の中にしのぶ草*11が混ざって生えている。「顔淵*12の住まいでは辺り一面に草が茂っており、瓢箪はいつも空である。原憲*13の住まいには蓬や藜*14が深く生え、雨が戸を濡らしている*15」と言った様子である。屋根の杉板にも隙間ができて、時雨も霜も露も、月の光と争うようにして漏れ入ろうとしている。後ろは山、前は野原、少しだけ生えている背の低い笹が風に騒いでいる。浮世を捨てた身の多くの辛さを表しているような、節の多い竹で作った柱が立ち、都からの言伝の間遠さを示すような、きつく結われた垣根が並ぶ。訪れるものは、峰にこだまする猿の声、薪を伐るきこりの斧の音ばかりである。これらの音信がなければ、訪れるものはまれな所であった。
 後白河法皇が「誰かいるか、誰か」と呼ばれたが、返事をする者もいない。大分時間が経ってから、年老いた尼が一人現れた。「建礼門院はどこへいらっしゃるのか」と尋ねると、「この上の山へ、花摘みにお出かけです」と言う。「そのような事を頼む者もいないのか。いくら世を捨てた身であるとはいえ、おいたわしい事だ」と法皇がおっしゃると、この尼は言った。「五戒・十善*16の果報が尽きてしまわれたので、今はこのような目に遭われているのでしょう。肉身を捨てて行うべき修行に、どうして自身を惜しまれるというのでしょう。過去現在因果経*17には『現在の果により前世の因を知る事ができ、現在の因により来世の果を知る事ができる』と書かれています。前世・来世の因果を悟られている以上、少しも嘆かれる事はありません。悉達多*18太子は十九歳で、迦毘羅城*19を出て、檀徳山*20の麓で、木の葉をつなげて衣とし、峰に登って薪を取り、谷に下って水を汲み、難行・苦行の功によって、ついに悟りに達して成仏されたのです」この尼は、絹か木綿かの区別もつかないようなひどい布地をつなぎ合わせた衣を着ている。みすぼらしい姿でありながら、このように立派な事を言うとは不思議な事だと法皇は思われ、「そもそもお前は、どのような者であるのか」と尋ねられた。すると尼はさめざめと泣いて、すぐには返事をする事もできない。しばらくしてから涙を押さえて話し始めた。「申し上げるのも恐れ多い事ではございますが、故少納言入道・信西の娘、阿波の内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位でございます。あれほど深くご寵愛をいただいておりましたのに、お忘れだという事は、身の衰えを思い知らされるばかりで、今更ながら悲しみをこらえる事ができません」袖を顔に押し当てて、涙をこらえる事ができずにいる様子は、見るに忍びないほどであった。法皇も「そういえばお前は、阿波の内侍であるな。事もあろうに気付かなかった。まるで夢を見ているようだ」と涙を流された。お供の公卿・殿上人も「不思議な尼だと思っていたら、やはり理由があったのだ」と言い合った。
 後白河法皇はあちらこちらをご覧になった。庭では露がしっとりと下りた草が垣根に倒れ掛かり、垣根の外にある小さな田にも水があふれていて、鴫が降り立つような隙間も見当たらない。庵室に入り障子を開けると、弥陀如来と観音・勢至菩薩がいらっしゃった。中央の阿弥陀如来の手には五色の糸が掛けられている。左には普賢菩薩の画像、右には善導和尚*21安徳天皇の肖像が掛けられ、法華経八巻と九帖の御書*22も置かれていた。蘭の花と麝香の匂いと引き換えに、香の煙が立ち昇っている。あの維摩*23が十万の諸仏を招き入れたという一丈四方の部屋も、このようなものと思われた。障子には、多くの経典の重要な文句が書かれた色紙が、所々に貼り付けてあった。その中に、大江定基*24法師が宋の清涼山にて詠んだという詩の一節、『笙歌遥聞狐雲上、聖衆来迎落日前*25』も書かれていた。少し離れた所に建礼門院の作と思われる歌があった。
   おもひきやみ山のおくにすまひして雲ゐの月をよそに見んとは*26
 そうしているうちに上の山から、濃い墨染めの衣を着た尼が二人、岩を切り開き板を掛け渡した道をつたって降りてきた。歩きにくそうな様子である。これをご覧になった法皇が「あれは何者だ」とおっしゃると、先ほどの尼が涙をおさえながら「花を摘んだ籠を肘に掛けて、岩つつじを手にしているのは、建礼門院でいらっしゃいます。薪にする小枝と蕨を持っているのは、五条大納言・邦綱卿の娘で、先帝の乳母の大納言佐殿です」と、言い終わらないうちに泣き出した。法皇も何とも哀れに思われ、ただ涙を流されるばかりである。建礼門院はいくら世を捨てた身とはいいながら、今のこのような有様を見られてしまった事が恥ずかしく、消えてしまいたいと思ったがどうしようもなかった。夜ごと仏前に供える水のため袂は濡れがちであるのに、朝早く起きて花を摘んだので袖の上には山道の露がしっとりと下りている。これ以上、衣を濡らす訳にもいかないので、山へも戻れない。庵室へも入らず、涙にむせび、途方に暮れて立ちすくんでいるところへ、阿波の内侍が走り寄り、花を受け取った。

*1:おおはらごこう

*2:陰暦四月に行われる賀茂神社の祭礼

*3:藤原実定

*4:藤原兼雅

*5:源通親

*6:ふかやぶ:豊前介清原房則の子で、古今集歌人

*7:ふだらくじ

*8:後冷泉天皇の皇后・歓子

*9:池の水際に咲いていた桜が水の上一面に散り落ちて、今は波の上が花盛りである

*10:萱草の古称

*11:ノキシノブ

*12:がんえん:孔子の弟子の一人

*13:げんけん:孔子の弟子の一人

*14:よもぎ、あかざ

*15:和漢朗詠集・草

*16:「五戒」を保てば人間に生まれ、「十善」を行えば帝王に生まれるとされる

*17:因果応報の理を説いた経典

*18:シッダルタ:釈迦が出家する前、王子だった時の名

*19:釈迦の父・浄飯王の居城で、インドにあった

*20:だんどくせん:インドのガンダーラ国にある山

*21:ぜんどう:中国浄土教の大成者

*22:五部九巻からなる善導和尚の著書

*23:ゆいまきつ:維摩経に登場する人物で、釈迦の協力者

*24:さだもと:宋の五台山(清涼山)に登って、そこで死去した

*25:落日前、来迎する菩薩たちが奏でる笙歌が、遥か雲の上から聞こえてくる(十訓抄、宝物集)

*26:思いもよらなかった、このような山奥に住んで以前は宮中で眺めた月を見る事になるとは