平家物語を読む164

巻第十一 嗣信最期*1

 九郎大夫判官・義経のその日の装束は、赤地の錦の衣に、裾に行くにつれて紫が濃くなるように配色された糸で綴られた鎧を着て、鞘・柄などが黄金で飾られた太刀を帯び、黒白の斑文が鮮やかな羽ではいだ矢を背負っている。藤つるをびっしり巻きつけた弓を手にして、平家の船の方をにらみつけると、大声で「後白河法皇の使者、検非違使五位尉・源義経」と名乗った。次に、伊豆国の住人・田代冠者・信綱、武蔵国の住人・金子十郎家忠と与一親範、伊勢三郎義盛が名乗りを上げた。続けて、後藤兵衛実基と息子の新兵衛基清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶がそれぞれ名乗りを上げては、駆けつけた。平家の方では、「あれを射よ」と、遠くをめがけて矢を射る船もあれば、近くをめがけて矢を射る船もある。源氏の兵士たちは、それらの船を左手に見たり右手に見たりしながら矢を射掛け、岸に上げてある船の陰を馬の休み場所にしながら、うめき叫んで戦った。
 後藤兵衛実基は、戦の経験が豊富な老練の武士であったので、敵を攻める事はせずに、まず内裏に乱入し火を放ち、あっという間に焼き払ってしまった。これを見た平家の宗盛公は侍たちを呼びつけた。「そもそも源氏の軍勢はどれほどいるのか」「現在のところ、わずかに七十騎でございます」「ああ、無念だ。源氏の軍勢の髪の毛を一本づつ分けて取ったとしても、我が勢には足りないくらいであったというのに。取り囲まれて討たれまいと、あわてて船に乗り込み、内裏を焼かれてしまうとは腹立たしい。能登守・教盛殿はいらっしゃるか。陸に上がって、一戦を交えてはくださらぬか」能登守は「承知いたしました」と、越中次郎兵衛盛次と共に小舟に飛び乗ると、焼き払われてしまった大門の前の渚に陣立てした。義経率いる八十騎は、矢を射るのに具合のよい場所に控えている。越中次郎が舟の先に立ち、大声で言った。「名乗られたのは聞いたが、海上遠くにあり、その通称も本名もはっきりとは分からなかった。今日の源氏の大将軍はどなたでいらっしゃるのか」すると源氏の方からは、伊勢三郎が進み出て言った。「言うのも愚かしいが、清和天皇から十代の末裔である鎌倉殿の弟、九郎大夫判官・義経殿であるぞ」越中次郎は「そのような事があったな。先年の平治の戦で父を討たれ、孤児になったのが、鞍馬山の稚児となり、後には砂金商人の従者になり、食料を背負って奥州へさまよい下った小冠者の事か」と言った。伊勢三郎は「舌が柔らかいのをいい事に、主君の事を喋り立てるな。そう言うお前たちは、砺波山の戦で倶利伽羅の谷に追い落とされ、命からがら逃げ延びて、北陸道をさまよい、乞食をしてやっとの事で都へ上った者たちか」と言った。「我々は君主の恩恵で満ち足りているというのに、何が不足で乞食をするというのだ。そう言うお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、生活していると聞いたぞ」越中次郎がこう言うのを聞いて、源氏の金子十郎家忠が言った。「無駄な悪口ばかりだな。でたらめを無理にこじつけて悪口を言うならば、誰も敵いそうもない。去年の春、一の谷で武蔵・相模の若い武者たちの手並みのほどは、よく見たであろうに」と、言い終わらないうちに、そばにいた弟の与一親範が、十二束二伏*2の矢をよく引いてさっと放った。それは越中次郎の鎧の胸板に刺さった。その後は互いに、罵り合うのを止めた。
 能登守・教経は「船戦には、その特別な方法があるものだ」と、鎧の下に着る衣は着ずに、細い糸をからめてから染めた布地で仕立てられた小袖に、唐織りの綾を畳んだもので綴った鎧をまとうと、いかめしく作られた頑丈な太刀を帯び、二十四本の熊鷹の羽のような鷲の羽ではいだ矢を背負い、藤つるをびっしり巻きつけた弓を手にした。都で随一の強い弓を引く名手であったので、能登守の矢の先にいる者で射られない者はない。いよいよ義経を射落とそうと、狙いを定めたが、源氏の方もこれを知って、佐藤嗣信に忠信、伊勢三郎、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などという一人で千人の相手もすると言われる兵士たちが、我も我もと馬を並べ立てて、大将軍の前をふさいだ。仕方がないので、「矢面の者たち、そこをどきなされ」と次々に矢を射ると、たちまちに十騎ほどが射落とされた。中でも真っ先に前へ進み出た奥州の佐藤三郎兵衛嗣信は左の肩と右の脇をつっと射抜かれ、少しの間もこらえ切れずに馬から逆さまにどんと落ちた。能登守に仕える若い従者に、菊王という武勇に優れた者がいる。萌黄の糸で綴った簡略な鎧に、しころが三段*3になっている甲をかぶっていたが、柄が白木のままの長刀をさやからはずしたかと思うと、嗣信の首を取ろうと走り寄った。佐藤四郎忠信は、兄の首を取られまいと、よく引いて矢を放った。菊王は鎧の背中の合わせ目をつっと射抜かれ、犬のような格好に倒れた。能登守はこれを見て、急ぎ船から飛び降りると、左手に弓を持ちながら、右手に菊王を引っ提げて、船へ投げ込んだ。よって菊王は敵に首を取られはしなかったが、重傷を負ったため死んでしまった。菊王はもともと越前三位・通盛卿に仕える者であったが、通盛卿が討たれて後は、弟である能登守に仕えていた。年は十八歳であった。能登守は、菊王が討たれた事があまりにかわいそうで、その後は戦をしようともしなかった。
 義経は佐藤三郎嗣信を陣の後ろへ担ぎ込ませた。馬から降り、手を取って「三郎兵衛、意識はあるか」と聞くと、苦しい息の下から「もうこれまでと思われます」と答える。「思い残す事はないか」「何を思い残すというのでしょう。ただ主君が出世なさるのを見届けずに死ぬ事こそが、悔しく思われます。それ以外は、武士である以上、敵の矢に当たって死ぬのはもとから予想していた事でございます。中でも、『源平の合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者は、讃岐国屋島の磯にて、主君の命を助けるために討たれた』と末代まで語られる事こそ、武士の身としては、この世の名誉、冥途の思い出でございます」と最後まで言い終わらないうちに、佐藤嗣信は目に見えて弱り始めた。義経は涙をはらはらと流し、「この辺りに尊い僧はいるか」と尋ねて探し出すと、「負傷者が今、息を引き取るので、一部の経を多人数で手分けして書き写して弔ってほしい」と、太くたくましい黒馬に、前後を金で縁取りした鞍を置き、その僧に贈った。義経が五位尉になった時、やはり五位の位を与えられた馬で「大夫黒*4」と呼ばれた馬である。一の谷の鵯越を駆け下りたのも、この馬によってであった。弟の四郎兵衛を始めとして、これを見ていた者は皆が涙を流し、「この主君のために命を失う事は、露ほども惜しくはない」と言ったという。

*1:つぎのぶさいご

*2:こぶしを十二個と指幅二本分の長さ

*3:五段のものより簡略

*4:たいふぐろ