平家物語を読む147

巻第十 首渡*1

 寿永三年二月七日に摂津国播磨国の境の一の谷で討たれた平氏の首は、十二日に都へ入った。平家と縁故のあった人々は、自分たちの側の人間がどれだけ辛い目に遭った事かと、嘆き合い悲しみ合った。中でも大覚寺*2に隠れていた小松三位中将・維盛卿の北の方は、とりわけ不安で仕方がなかった。「今回の一の谷の戦で、平家一門の人々は残り少なくなるまで討たれてしまい、三位中将とかいう公卿が一人、生け捕りにされて都へやって来る」と聞くと、「維盛卿に違いない」と、衣をかぶって泣き伏してしまった。ある女房が訪れて、「三位中将殿というのは、維盛卿の事ではなく、本三位中将殿*3の事でございます」と言っても、北の方は「それならば、維盛卿は切られた首の中にいる事でしょう」と、少しも不安な気持ちを消し去る事はできなかった。
 二月十三日、大夫判官・源仲頼が、六条河原に出向いて平氏の首を受け取った。西洞院の大路を北へ引き回して、獄舎の門のそばの木にそれらの首を掛けてはどうかと、源範頼義経後白河法皇に訴えた。法皇はこの件をどう処理したらいいかと悩まれて、摂政・藤原基通殿、左大臣藤原経宗公、右大臣・藤原兼実公、内大臣・藤原実定公、堀河大納言・藤原忠親卿に相談された。五人の公卿が「昔から公卿と大臣の位に上った人の首が、大路を引き回された例はありません。その上、この人たちは、先帝の御世に、天皇外戚に当たる臣として、長い間、朝家に仕えていました。範頼・義経の申し出は、決してお許しになってはなりません」と、異口同音に唱えたので、平氏の首は大路を引き回されない事になった。が、範頼・義経は引き下がらずに「平氏は、保元の乱では祖父・為義の仇、平治の乱では父・義朝の敵でした。君主の立腹を鎮め、父と祖父の恥を清めるために、命を捨てて朝敵を滅ぼしたのです。今回の平氏の首が大路を引き回されなかったならば、今後、何を励みとして凶賊を討ち滅ぼす事ができるでしょうか」としきりに訴えるので、法皇はどうする事もできず、とうとう平氏の首は大路を引き回される事になった。見物する人は数え切れないほどである。平家一門が朝廷に仕えていた頃には、恐れる人が多かったというのに、今では世間にさらされる首を見て、憐れみ悲しまない人はいなかったのである。
 小松三位中将・維盛卿の息子である六代に仕えていた斎藤五・六は、気がかりな余り、みすぼらしく姿を変えてこれを見に来ていた。それぞれの首が誰のものか見分ける事はできたが、維盛卿の首は見当たらなかった。それでも余りに悲しく、隠すのが難しいほど涙が流れたので、周りの人々に怪しまれては困ると、急ぎ大覚寺へ戻った。北の方が「どうですか、どうでしたか」と問うと、「小松殿の君達で見当たりましたのは、備中守・師盛*4殿の首だけでした」その他には誰彼の首が、と具体的にその名を上げて伝えたところ、北の方は「どれも身近な人ばかりで、とても他人事とは思えません」と、むせび泣いた。しばらくして斎藤五が涙をこらえながら言った。「この一両年は隠れていましたので、人にもそれほど見知られてはいません。もうしばらく首を見届けるべきでしたが、事情に通じている者が『小松殿の君達は、今回の合戦では、播磨と丹波の国境であるという三草山を固めていたが、源義経に攻められて、新三位中将・資盛卿、小松少将・有盛殿、丹後侍従・忠房殿は、播磨の高砂*5から舟に乗って、讃岐の屋島へ渡った。どういう訳で離れ離れになったのだろうか、兄弟のうち、備中守・師盛殿だけが一の谷で討たれてしまった』と言っていました。『では小松三位中将・維盛卿はどうなされたか』と尋ねると、『その方は戦の前から、重い病気にかかり、屋島に残っていたので、今回の戦には参加していません』と、言っていました」これを聞いて北の方が「それはきっと、私たちの事を思い嘆く余り、病気になってしまったのでしょう。風の吹く日は、今日も舟に乗っておられるのだろうと心配でたまらず、戦と聞けば、たった今にも討たれたのではと気が気ではありませんでした。そのような病気であればなおさら、誰が安心できるように看病する事ができるというのでしょう。詳しく聞かなければ」と言えば、若君と姫君は「なぜ、どのような病気かと、尋ねなかったのだ」と斎藤をなじったというから悲しい事である。
 離れていても心は通じ合うもので、維盛卿も「都ではどれほど不安に思っている事であろう。討たれた首の中にはなくとも、水に溺れて死んだかもしれない、矢に当たって死んだかもしれないと思うだろう。もはやこの世に生きてはいないと思っているに違いない。露のようなはかない命がまだ続いている事を知らせなければ」と、侍一人を都へ行かせる事にした。維盛卿は三つの手紙を書いた。まず北の方への手紙には「都には敵があふれていて、自分の身の置き場所すら覚束ないであろうに、幼い子たちを連れて、どれほど悲しんでいる事でしょう。すぐに迎えに行って、同じ場所で一緒に死のうと思っても、私一人ならばともかく、あなたの事を思うと心苦しくてそれも叶わない」などと書いた。文末に一首の歌を添えた。
   いづくとも知らぬあふせのもしほ草かきおくあとをかたみとも見よ*6
幼い子たちへの手紙には「気が晴れない毎日を、どのように過ごしているだろうか。できるだけ早く迎えに行くぞ」と、同じ文面でそれぞれに書いた。都へ着いた使者が手紙を北の方に渡すと、北の方は再び嘆き悲しんだ。が、使者が四、五日で戻るというので、北の方は泣きながら返事を書いた。若君・姫君が筆を持って「父へのご返事は何と書けばいいでしょう」と尋ねると、北の方は「ただ、とにかくお前たちの思うように書きなさい」と言った。「どうして今まで迎えに来てくださらないのですか。これほど恋しく思っているのですから、今すぐに迎えに来てください」と、同じ言葉をそれぞれが書いた。この手紙を持って、使者は屋島に戻った。維盛卿はまず幼い子たちの手紙を見て、どうにも悲しみを我慢できないように見えた。「そもそも家族の事を思うと、この世を捨てて出家する気にはなれない。この世における妻への愛着が強すぎて、極楽浄土に生まれ変わりたいと願う気持ちにも身が入らないのだ。今すぐに人目を忍んで山道を伝って都へ行き、恋しい者たちにもう一度だけ会って、その後に自害をするしかあるまい」そう言って、涙を流した。

*1:びわたし

*2:だいがくじ:現京都市右京区嵯峨大沢町にある古義真言宗大本山

*3:当時の平家の三位中将は、重衡・維盛・資盛の三人で、この中で上位の重衡が本三位

*4:故重盛の子

*5:兵庫県高砂市加古川の河口

*6:いつどこで再び会えるか分らない海に藻塩草のようにはかない我が身が書いたこの手紙を、形見だと思ってほしい