平家物語を読む133

海

巻第九 六ケ度軍*1

 平家が福原へ渡って後、四国の兵士たちは平家に従わなくなっていた。中でも阿波・讃岐の役人たちは、平家に背いて源氏につこうとしていた。「そもそも我々は昨日・今日まで平家に従っていた者であり、今になって源氏の方へつこうとしても、よもや信用してはもらえないだろう。では平家に矢の一本でも射て、それを源氏の方につく証として示そうではないか」という事になり、門脇の中納言平教盛*2とその息子たちである越前三位・通盛、能登守・教経の父子三人が備前国の下津井*3にいると聞くと、これらを討とうと十艘ほどの船で押し寄せた。この事を耳にした能登守・教経は「憎い奴らだ。昨日・今日まで我々の馬の草を刈って奉仕していた奴らが、もう主従の約束を破るとは。そういう事ならば、一人残らず討ってしまえ」と、小舟に乗り込んで、「逃すな、討ちもらすな」と攻め立てたのである。四国の兵士たちは体裁だけの戦をしようと思っていたところを、手ひどく攻め立てられて、敵わないと思ったのだろう、実際に戦を交えないうちに退き、都の方へ逃げ、淡路国の福良*4の港に着いた。淡路国には二人の源氏がいた。故六条判官・源為義の末子である賀茂冠者・義次と淡路冠者・義久と聞く。四国の兵士たちはこれらを大将と頼んで城郭を構え、敵を待った。すぐに能登守が押し寄せ、戦は一日中続いた。賀茂冠者は討死にし、淡路冠者は重傷を負って自害してしまった。能登守は防ぎ矢を射る百三十人もの兵士たちの首を切った上で、討手に関係した人々の名を記した文書を福原へ届けさせた。
 門脇の中納言は福原へ向い、二人の息子たちは、呼びつけてもやって来ない伊予の河野四郎通信を攻めるために、四国へ渡った。兄の越前三位・通盛は、阿波国の花園*5にある城に着いた。一方、弟の能登守・教経が讃岐の屋島へ渡ると聞いた河野四郎通信は、母方の伯父である安芸国の住人・沼田次郎と組もうと、安芸国へ向った。これを聞いた能登守は、すぐに屋島を出た。敵を追って、備後国の箕島*6を経て、翌日には沼田の城へ着いた。沼田次郎と河野四郎は協力し合って守りを固めようとしたが、押し寄せた能登守の軍勢と一日一夜戦ううちに、沼田次郎は敵わないと思ったのだろう、甲を脱いで降参した。それでも河野四郎は降参しなかった。五百騎あった軍勢がわずか五十騎にまで討たれ、河野四郎は城を出た。途中、能登守の侍である平八兵衛為員が率いる二百騎の中に取り込められ、七騎になるまで討たれた。舟に乗って逃れようと、細い道を通り水際の方へ向う時、平八兵衛の息子で弓の上手である讃岐七郎義範に追いつかれ、あっという間に五騎が射落とされた。とうとう従者とたった二人になった。そこへ、河野四郎が我が身に変えてまでもと大切に思っている従者に、讃岐七郎が馬を押し並べて組み、二人は馬から落ちた。讃岐七郎が相手を取り押さえて今にも首を切ろうとした時、引き返してきた河野四郎が従者に馬乗りになっていた讃岐七郎の首をかき切って深田へ投げ入れた。大声で「河野四郎越智の道信、生年二十一歳、戦はこのようにするものだ。我こそはと思う人々は私を止めてみよ」と言うと、従者を肩に引っ掛け、そこからさっと逃れて小舟に乗り込み、伊予国へ渡ってしまった。能登守は河野四郎こそ討ち漏らしたが、降参した沼田次郎を連れて、福原へ向った。
 また、淡路国の住人・安摩六郎忠景*7も平家に背いて源氏に心を通わせていた。二艘の大舟に兵糧米・武具を積んで、都の方へ向っていたが、福原でこれを聞いた能登守は、十艘の小舟で後を追った。安摩六郎は西宮*8の奥で引き返し、敵に立ち向かって戦った。激しく攻め立てられて、敵わないと思ったのだろう、引き退いて和泉国の吹井*9の浜に着いた。
 紀伊国の住人・園辺兵衛忠康も平家に背いて源氏の方につこうとしていたが、安摩六郎が能登守に攻められて今は吹井いると聞き、百騎ほどの軍勢を連れて急ぎ駆けつけた。能登守はすぐに吹井を攻めてきたので、一日一夜、防戦したが、安摩六郎も園辺兵衛も敵わないと思ったのだろう、家来・従者に防ぎ矢を射させ、自分たちは都へ逃げた。能登守は防ぎ矢を射る兵士たち二百人以上の首を切って獄門に掛け、それから福原へ戻った。
 伊予国に戻っていた河野四郎通信は、豊後国の住人・臼杵二郎維高と緒方三郎維義の兄弟を味方につけて、総勢二千騎ほどで備前国へ押し渡ると、今木の城*10に立てこもった。これを聞いた能登守は、福原から三千騎で駆けつけ、今木の城を攻めた。能登守が「奴らは手強い敵であります。もっと軍勢を出していただきたい」と言ったせいで、福原から数万騎の軍勢がやって来るとの噂が流れると、今木の城にこもっていた兵士たちは、力の及ぶ限り戦い、敵の首を取り、思う存分の手柄を立てた上で、「平家は大勢で、我々は無勢であります。どう考えても構いません。ここは一旦離れて、しばらく様子を伺いましょう」という決断をした。臼杵二郎・緒方三郎は舟に飛び乗って九州へ渡り、河野四郎は伊予へ向った。能登守は「もう討つべき敵もいない」と、福原へ戻った。宗盛公を始めとする平家一門の公卿・殿上人は寄り集まって、能登守・教経殿の毎度の手柄を声をそろえて感嘆したという。

*1:ろくかどのいくさ

*2:忠盛の四男で、清盛の異母弟

*3:岡山県倉敷市の南

*4:兵庫県三原郡南淡町福良

*5:徳島市国府町花園

*6:広島県福山市箕島町

*7:淡路国三原郡阿万の住人

*8:兵庫県西宮市

*9:大阪府泉南郡岬町深日

*10:岡山県邑久郡向山にあった