何かをし過ぎた時

Cedar Waxwing

 以前読んだ小説の中に、「近頃、玉突きばかりしているせいで、何をしていても玉の動きが頭から離れない。往来を歩いていても、前を歩いている人たちの後ろ頭がすべて玉突きの玉に見えてきて、『ああ、これをあっちに向かって突いたら、あれは床屋の入口に突っ込むな』などと考えている始末である」というような件があった。面白く感じたので、後日、夫に話した。
 夫は笑いながら「その気持ち、よくわかるよ」と言った。子供の頃、五目並べばかりしていた時期があって、その頃は何をしていても五目盤が頭の中から離れなかったらしい。ちょうど今頃の季節だったのだろう。家のそばの田には稲の苗が等間隔に植えられていた。その様子がやはり五目盤に見えてきて、「初めはあそこに置いて次は隣、その次は……」と、頭の中で五目並べを始めてしまったと言っていた。
 ところで昨日の昼間、私はここ三日ほど集中して取り組んでいたブティというキルトを仕上げた。よくあることだが、終わりが近付くにつれて調子が上がってきた。筋肉痛の右手に先を細くした竹串を持つと、目を見開いて、裏側に開けた小さな穴から少しづつ少しづつ綿を詰め込んでいく。一箇所詰め上がる度に表へ返して、そのぷくっとした感触を確かめた。
 あまりに懸命に取り組んだせいだろう。夜になって私はふと、目に映る白いものを、自分がブティのあの形態に置き換えて見ていることに気付いた。「壁の電源は四角いから、綿を均等に入れるのは難しそうだ」とか、「ガラス張りのドアフレームの細い直線部分に詰めるのは、綿よりも綿コードがいいだろう」とか。寝床に入ってもその感じは止まらず、思い浮かべた風景が直ちに白いブティに置き換わったりして、いささか気持ち悪かった。





*画像の鳥は、Cedar Waxwing(ヒメレンジャク)です