平家物語を読む121

川

巻第八 征夷将軍院宣*1

 そうしているうちに前右兵衛佐・源頼朝は、鎌倉にいながらにして征夷大将軍院宣を受け取る事となった。この時の使者と聞く左史生・中原康定が関東へ到着したのは十月十四日の事である。頼朝は「私は長年、天皇のおとがめを受けてきたが、武勇の名誉に長けた事により、今では鎌倉にいながらにして征夷大将軍院宣を受けるのだ。どうしてそのように大事なものを、私邸で受け取る事ができようか。若宮の社*2にてお受け取りしよう」と言って、若宮へ向った。鶴岡に建っているこの八幡は、地形が石清水八幡宮とよく似ていて、廻廊や二階造りの門があり、社頭から浜に渡って造られた歩道は十八町*3に及んだ。
 「そもそもこの院宣、誰をもって受け取るべきか」という評議が行われたが、「三浦介義澄*4がよい。なぜならこれは、関東八ヶ国に評判の及ぶ弓矢の名手であった三浦平太郎為次*5の子孫である。また父である故大介義明は主君のために命を捨てており、冥土にあるその亡魂を慰めるためでもある」というような話し合いが行われたと聞く。院宣の使者である康定は、血縁のある家来二人、従者十人を連れており、院宣は文袋に入れて役人の首に掛けさせていた。義澄も血縁のある家来二人、従者十人を連れていた。このうち二人の家来とは、和田三郎宗実*6・比木藤四郎能員*7であるが、二人は十人の従者をにわかに、十人の大名に仕立て上げた。義澄はこの日、濃紺の衣に黒糸で綴った鎧を着て、いかめしげに作られた大太刀を帯び、中央の黒の斑文が大きい羽ではいだ二十四本の矢を背負い、黒塗りの上に藤蔓を巻きつけた弓を脇に挟んでいた。脱いだ甲を高紐*8に掛けると、腰をかがめて院宣を受け取った。康定が「院宣を受け取っておられる人はどなたか、名を名乗られよ」と言うと、私的な称号である「三浦介」とは名乗らずに本名である「三浦の荒次郎義澄でございます」と名乗った。覧箱に入れた院宣が頼朝に渡され、しばらくするとその覧箱が康定に返された。重かったので開けてみると、中には砂金が百両入っていた。若宮の拝殿にて、康定には酒が勧められた。給仕を務めるのは、斎院次官親能*9である。五位の者一人が、食物を親能に届ける役を務めた。馬三頭が引き出物として贈られ、そのうち一頭に鞍が置かれていた。これを引いたのは、近衛河原の大宮*10に仕える狩野工藤一臈資経*11である。また、古いが手入れの行き届いた萱葺きの家に、康定は案内された。中には、綿を厚く入れた寝具二揃え、装束の下に着る衣十着が、長持ちに入れて準備してあった。紺や藍で模様を摺りだした布・白布千反*12も詰められている。酒宴の料理は豊かで美しいものであった。
 次の日、康定は頼朝の館へ向った。内侍*13と外侍*14があり、共に十六間の大きさはある。外侍には、血縁のある家来・従者たちが肩を並べ、膝を組んで並んでいた。内侍には、源氏一門の人々が上座に座って、末座には大名主・小名主があふれている。康定は、源氏の上座に座らされた。しばらくしてから寝殿に案内され、大床に赤紫の布で縁取られた畳を敷いた所に座らされた。上座には、白地に雲形や菊花などを黒く織り出した布で縁取った畳がある。御簾が高く上がると、頼朝が現れた。無紋の衣に立烏帽子をかぶっている。顔が大きく身長は低かったが、顔つきは美しく、言葉遣いは明瞭であった。頼朝はまず、自分の言い分を詳しく述べた。「平家は頼朝の威勢を恐れて都を逃げたが、その後、木曾の冠者・十郎蔵人が都に討ち入り、まるで自分の手柄であるかのように官加階を思うがままにして、それぞれの官に好きなようになった。それだけには留まらず、任命された国を嫌って避けるとはけしからぬ事である。陸奥の豪族であった藤原秀衡陸奥守に、佐竹四郎隆義は常陸介になってからというもの、頼朝の命に従おうとはしない。すぐにも追討するべきだという院宣をお願いしたい次第である」これを聞いた康定が「今回はこの康定も名簿*15を持ってくるべきでしたが、使者としての訪問でありましたので持って参りませんでした。まずいったん都へ戻ってそれからすぐに名簿を書いて差し出そうと思います。兄である史大夫・重能も同じ事を申しております」と言うと、頼朝は笑って「現在の私の身の上として、あなた方の名簿をいただく事は考えてもいません。しかしながら、そのように申されるのであれば、そのつもりでいましょう」と言った。間もなく康定が今日のうちに都へ戻る事を伝えると、「今日だけはここに留まるように」と、その日は鎌倉に留められたのだった。
 次の日、康定は頼朝の館を発った。康定は、萌黄の糸で綴った簡便な鎧に、銀の金具で装飾された太刀を帯び、藤蔓を巻きつけた弓に狩り用の矢を添えて携えていた。十三頭の馬が引き出物として贈られ、そのうち三頭に鞍が置かれていた。十二人の家来・従者にも、衣や袴・馬鞍が贈られ、荷を背につけた馬は三十頭もあった。康定は鎌倉を出た次の宿から鏡の宿*16に至るまでのすべての宿に、米を十石ずつ置いていった。あまりに多かったため、施しものにしたという事だ。

*1:せいいしょうぐんのいんぜん

*2:鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮

*3:約2キロ

*4:相模の豪族で桓武平氏

*5:ためつぐ

*6:義明の孫

*7:よしかず

*8:鎧の肩上と胸板をつなぐこはぜに付けた紐

*9:ちかよし

*10:藤原多子

*11:すけつね

*12:約1000メートル

*13:寝殿の東西の廊の内に作られた武士の詰所

*14:本屋の外に別棟として作られた武士の詰所

*15:みょうぶ:貴人に会ったり、家人として仕える時などに、証として提出する名札

*16:滋賀県蒲生郡竜王町鏡にあった宿場