平家物語を読む108

巣箱

巻第七 平家山門連署*1

 平家はこの事を知らずに、「興福・園城両寺は当家に対して恨みをつのらせているので、味方に引き入れようとしても無理であろう。だが、当家はいまだ延暦寺には恨みを買っていない。延暦寺も当家に不忠を働いた事はない。山王権現に祈祷して、比叡山の三千の僧を味方につけよう」と、一門の公卿十人が同意し署名した願文を延暦寺に送った。その内容は以下の通りである。
延暦寺を氏寺と考え、日吉神社*2を氏社と考え、ひたすら天台の仏法を仰ぐ事をここに敬って申す。
当家一族の輩は、特に祈誓したい事がある。比叡山桓武天皇*3の治世の頃、伝教大師*4が唐から戻られて後、天台の教法を広め、天台密教の教えを伝えてからこれまで、もっぱら仏法繁昌の神聖な岩屋として、国家を鎮めるための道場として、ふさわしく整っている。だがまさに今、伊豆国の流人・源頼朝がその身の罪を悔いもせずに、国家統治の根本となる法規を無視している。それだけではなく、謀反に力を貸す源氏は、義仲・行家を始めとして多くの党を作った。隣国や遠国を数国奪い取り、土地の産物や土地から上納される年貢を横取りした。よって、平家一門が代々に渡って上げてきた功績に習い、または武芸を頼みにして、すぐに賊徒を追討し、凶党を降伏させる事を、いやしくも天皇の命を受けて計画した。魚鱗や鶴翼の形の陣をとって戦を行ったが官軍の有利にはならず、戦での威力は敵方が勝っているかのようである。もし神仏の助けを得られなければ、どうして反逆の凶乱を鎮める事ができようか。そういう訳で、ひたすら天台の仏法に帰依し、怠りなく日吉の神の恩を頼みにするのである。恐れ多くも我々が始祖は、延暦寺建立の発願者である桓武天皇である。益々尊重し、益々尊敬するべきである。今より後、延暦寺の喜びは平家一門の喜びとし、日吉神社の憤りは平家一門の憤りとして、それぞれが子孫に長く伝えていこう。藤原氏春日神社・興福寺を氏社・氏寺として、長い間、法相宗に帰依している。平氏日吉神社延暦寺を氏社・氏寺として、天台の教法に巡りあうのである。藤原氏は古くからの伝統をもって、家の幸福を願っている。平氏は現在の祈りに心を込め、君主のために追討を願っている。どうか、山王七社、比叡山の仏法を擁護する菩薩たち、十二の誓願を起こした薬師如来と日光月光菩薩、たぐいない真心をもって、唯一の感応を示して下さい。そうすれば、邪悪な策略をもって反逆する賊臣は、へりくだった態度で降伏し、彼らの首を都に伝える事ができるでしょう。当家の公卿たちが心を一つにして祈誓するのは以上の通りである。
従三位越前守・平通盛従三位右近衛中将平資盛正三位左近衛権中将兼伊予守・平維盛正三位左近衛中将兼播磨守・平重衡正三位右衛門督兼近江遠江守・平清宗、参議正三位太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守・平経盛、従二位中納言兼左兵衛総督征夷大将軍平知盛、従二位権中納言肥前守・平教盛、正二位権大納言兼出羽陸奥按察使・平頼盛従一位平宗盛、敬って申す
 寿永二年七月五日
 天台座主・明雲大僧正はこれを見て憐れに思い、すぐには披露せずに山王七社の一つである十禅師の御殿にて三日間、祈祷を行ってから、延暦寺の僧たちに披露した。書状には、「山王権現に祈祷して、三千の僧が力を合わせるよう」とある。けれども年来の平家の振る舞いは、神の御心から離れ、人々の信頼を裏切るものであったので、平家の祈りは叶わず、味方につくものはいない。延暦寺の僧たちは、平家の状態を憐れみはしたが、「既に源氏に対して、味方をする旨の返事を送った。今また、軽々しくそれを改める事はできない」と言い、平氏の祈誓を許容する者はいなかった。
 初めは気付かなかったが、書状を巻いてある紙の上に、一首の歌が書かれていた。
   たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそなれ*5







*画像は、アパート内の所々に設置されているバードハウス。Purple Martin(ムラサキツバメ)用か。

*1:へいけさんもんへのれんじょ

*2:山王

*3:第50代天皇

*4:天台宗の開祖・最澄

*5:平穏に花が咲き繁栄していた宿も、年月が経てば西へ傾いていく月のように衰えていくものである