平家物語を読む104

巻第七 真盛*1

 また、武蔵国の住人・長井斎藤別当実盛は、味方が皆、退散していく中、ただ一騎で何度も引き返しては戦い続けていた。心に期する事があったので、本来は大将軍の装束である赤い錦の衣に、若者が好むような萌葱色の糸で綴った鎧を着て、鍬形の前立を取り付けた甲をかぶり、金で飾った太刀を携え、黒白の斑文のある羽ではいだ矢を背負い、藤蔓で幹を巻いた弓を持って、葦毛に灰色の斑点のある馬に、金で縁取った鞍を置いて乗っていた。木曾方の手塚太郎光盛が、立派な敵だと目をつけ、「何と勇ましい事だ、味方の軍勢が皆、退散したというのに、ただ一騎残って戦い続けるとはすばらしい。どのような人なのか、名を名乗って下さい」と声を掛けると、「そう言うあなたは誰だ」と言う。「信濃国の住人、手塚太郎光盛」と名乗ると、実盛は「さては、互いに立派な敵であるぞ。ただし、あなたを見下して名乗らないのではない、思うところがあって名乗らないのだ。寄れ、組もう手塚よ」と言うと、無理に馬を並べようとする。そこへ、手塚の従者が遅れてやって来た。主人を討たせまいとして、間に入り、実盛とむんずと組む。すると実盛は「あっぱれだ、お前は日本一の剛の者と組もうとするわけだな」と言うと、相手をつかんで引き寄せ、鞍の前輪に押し付けて首をかき切って捨ててしまった。手塚は従者が討たれたのを見て、実盛の左側に回って組むと、腰部の防具をたくし上げて二回、刀を刺し、実盛が弱ったところで組み付いた。実盛の心は勇ましかったが、戦に疲れており、その上老武者である。馬から落ちて、手塚の下になってしまった。遅れてやって来た別の従者に、手塚は実盛の首をとらせた。木曾殿の前にて、「光盛が、ひとくせある異様な者を討ち取りました。従属する武士かと思えば、大将軍の着用する錦の衣を着ています。大将軍かと思えば、従う軍勢もいません。名乗れと問い詰めても、終に名乗りませんでした。声は東国なまりでした」と伝えると、義仲は「何と、これは斎藤別当実盛ではないだろうか。もしそうならば、義仲が上野へ向った幼い時、既に白髪混じりの髪であった事を覚えているぞ。きっと今は、すっかり白髪になっているはずだが、鬢の髪やあごひげだけが黒いのが怪しい。樋口次郎ならば、以前親交があったのでよく見知っているだろう。樋口を呼べ」と言った。樋口次郎兼光が呼ばれた。一目見て、「何といたわしい、斎藤別当でございます」と言う。義仲が「それならば、今は七十歳にもなろう。白髪になっているはずなのに、鬢の髪やあごひげが黒いのはどうしてか」と問うと、兼光ははらはらと涙を流して答えた。「そうであるので、その理由を申し上げようとしましたが、余りに哀れで思わず涙がこぼれてしまいました。武士というものは、どのような場所にいても、思い出となる言葉を、かねがね使っておくべきですね。斎藤別当は兼光に会うたびに、このように話していました。『六十歳を過ぎて戦に赴く時は、鬢の髪とあごひげを黒く染めて若々しく見せようと思っている。なぜなら、若い武士たちと先を争って駆けるのも大人気ないし、また、老武者だと人々に侮られるのも悔しいからである』しかし、本当に染めていらっしゃったとは。洗い流してご覧ください」「ともかくそうしよう」と、洗い流させてみると、黒かった鬢の髪もあごひげも、すべて白髪であった。
 大将軍の装束である錦の衣を着ていたのは、大臣殿への最後の挨拶の時、実盛が「この実盛一人だけの責任ではありませんが、先年、東国へ赴いた時、水鳥の羽音に驚いて、矢の一本も射ずに、駿河の蒲原から逃げ上った事は、ただ一つの老後の恥辱であります。今度、東国へ向う時は、討ち死にいたします。そうする事につきまして、お願いがございます。実盛は近年では、平家の庄園の別当に配属され、武蔵の長井*2に居を構えていますが、もともとは越前国の者であります。事のたとえではございましょうが、故郷へは錦を着て帰れ*3という言葉がございます。どうか、錦の衣の着用をお許しください」と言ったところ、大臣殿は「けなげにも言ったものよ」と、それを許したと聞く。昔、朱買臣*4は、錦の袂を会稽山*5に翻したが、今の世の斎藤別当実盛はその名を北国の人々に知らしめたという。朽ちる事もない、名前という空しいものを後に留めるばかりで、その屍は北陸道の塵となるとは悲しい事であった。
 四月十七日に、十万騎以上で都を出発した時には、誰にも敵対できるようには見えなかったのに、この五月下旬に都へ戻ってきた時には、わずか二万騎ほどを残すばかりになっていた。「水の流れをすべてなくしてしまえば、多くの魚を得る事はできるが、翌年に魚はいない。林をすべて焼いてしまえば、多くの獣を得る事ができるが、翌年に獣はいない。後の事を考えて、少しは残しておくべきである*6」と、その有様を揶揄する人々もいたという。

*1:さねもり

*2:現埼玉県大里郡妻沼町永井太田

*3:史記項羽本紀より

*4:しゅばいしん:家が貧しかったが、苦学の末、漢の武帝に仕え、故郷の太守となったという

*5:かいけいざん:中国浙江省紹興市の東南にある山

*6:すべてをし尽くさないで、余裕を残しておくべき事のたとえ「貞観政要・直言諌争十」より