遠い海

森

 子供の頃、父は時々、私を散歩に誘ってくれた。当時、母はいつも忙しくしていたような気がする。姉はどうしていたのだろう、思い出せないが、この父と私の二人という図はしょっちゅうあったように思う。行き先は歩いて十五分ほどのところにある神社が多かった。
 住居が立ち並ぶ地域を抜けると、道はゆるい坂になる。この辺りは小さな商店街になっており、酒屋から始まって豆腐屋、肉屋、八百屋……クリーニング屋、そして魚屋と、小売店が軒を連ねている。端の魚屋を過ぎたところから坂がきつくなり始める。その右手の山が神社だった。
 鳥居をくぐると目の前に果てしなく続くかと思われる石段が姿を現す。深い林に挟まれた古い石段をひたすら登った。崩れてしまっているものや、斜めになっている段も多い。神社には戦火に見舞われた過去があると父から聞いた。
 石段はどこまでも続く。途中、踊り場のように少し広くなった場所がいくつかあるが、またすぐに険しい登りが始まる。父と私はもくもくと登った。いつ来ても人気のない神社だった。
 神社という場所に何とはなしに居心地のよさを感じるというのもあったが、この苦しい石段を知ってなお、私が父の散歩について来るのには、ある小さな理由があった。
 天気のいい日、石段を八分目ほど登った辺りからだろうか、振り返ると遠くに海が見えるのだ。これが楽しみだった。曇っていて海が見えない日はひどく残念だったし、見えた日は心が弾んだ。
 この辺りから海までは、直線にしても十キロ以上ある。普段、海の気配などみじんも感じられない地域だっただけに、このことはとてつもない秘密のように私をとりこにした。
 長い長い石段を半分ほど過ぎる頃になると、「もうそろそろかな、まだかな」と思いながら、先を急ぐようになる。振り返りたいが、もしまだ海が見えないと悲しいので我慢して進む。進みながら、「もしかして、もう背中には海が見えているのではないか」と思うとドキドキした。「ここなら必ず見えるだろう」というところまで登ると、意を決して後ろを振り返る。あった。家並みがどんどん細かくなり、もう何が何だかわからなくなった先に、キラキラと光る白い海があった。海が見えることについて、父と一言、二言、言葉を交わした。
 その後は、時々海を振り返りながら登った。最後の「踊り場」を過ぎると、ようやく神社の屋根が見えてくる。この辺りまで来ると更に石段は急になった。一歩上がるごとに、ぐんぐん社殿があらわになった。
 息が上がったまま、父からもらった小銭を賽銭箱に投げ入れる。二人で柏手を打つと、私が少し大げさにガラガラと鈴を鳴らした。来た道を戻って石段の一番上に腰を下ろすと、父と私はしばらく遠い海を眺めた。
 この神社から見た海のある風景は、当時の興奮と共に、今でも私の中に残っている。
 ところで先日、平家物語を読んでいて、戦場で偶然にも、武道の神を祭る八幡宮の分社のそばに来ていたと知った木曾義仲が、戦の勝利を確信するという件があった。ふと、そういえばあの神社も八幡宮だったと思い当たった。
 それならばと、ほとんど知らなかったその歴史を調べてみることにした。神社はもともと別の場所に建てられていたものを、十七世紀後半に現在の場所に遷したものだった。そして、その約十年後の五月、奥州を旅する芭蕉曽良が立ち寄っている。二人が私の住んでいた地域にも訪れていたことは知っていたが、あの閑散とした神社を参詣していたとは思いもよらなかった。曽良の「奥の細道随行日記*1」にその記述があるそうだ。そして、芭蕉の心に深く刻まれたのは、境内から遠望した海や島の風景であったという。
 芭蕉もあの、遠くで輝く海を見たのかと思うと、不思議な気持ちがする。ただ、私は島を見ることはできなかった。これは悔しいので、機会があったら必ずまたあの神社を訪れようと思っている。

*1:曽良旅日記