平家物語を読む90

巻第六 飛脚到来

 木曾という所は、信濃国でも南の端、美濃国との境であり、都にも意外に近い。義仲の謀反をどこからか耳にした平家の人々は「東国が背いたのでさえ大変な事であるのに、北国までもとは、どうしたものか」と騒いだ。清盛公は「その者は問題にするまでもない。考えてみると信濃国の兵士が皆従ったといっても、越後国には武勇に優れた平維茂の子孫である城太郎助長*1・四郎助茂*2の兄弟がいる。この兄弟は共に多くの兵士を従えている。命令を下したならば、すぐに討ち取ってしまう事だろう」と言ったが、陰では「一体、どうなるであろうか」とささやく人々も多かった。
 二月一日、越後国の住人・城太郎助長が越後守に任ぜられた。これは木曾を追討するための計略であると聞く。二月七日、大臣以下の人々はそれぞれが家にて、尊勝仏頂*3の功徳を説く経文や不動明王を書写するなどして供養を行った。これは戦乱鎮定のための祈願である。二月九日、河内国石河郡に居住していた武蔵権守・源義基*4とその息子の石河判官代・義兼が、平家を裏切って兵衛佐・頼朝の側につき、今すぐにも東国へと向かうらしいという噂が流れるやいなや、清盛公はすぐに討手を行かせた。太夫判官・源季定と摂津判官・平盛澄を大将に、総勢三千騎以上、対して先方は城内に義基・義兼を始めとするわずか百騎ほどである。戦始めの掛け声を上げて矢を射合い、戦が始まった。入れ代わり立ち代り、戦は数時間に及んだ。城内の兵士たちは力の限り戦った末に討ち死にする者が多かった。武蔵権守・義基は討ち死にし、息子の義兼は負傷して捕らえられた。二月十一日、義基の首が都の大路から大路へと引き回された。喪中に、討伐された首が引き回されるのは、堀河天皇崩御なされた翌年の嘉永三年*5正月に、前対馬守・源義親の首が引き回されて以来の事と聞く。
 二月十二日、九州からの飛脚が宇佐八幡宮宮司・公道*6の文を運んできた。「九州の者たちは、緒方惟義*7を始めとして兄の臼杵惟隆*8・戸次惟澄*9松浦党*10に至るまでが、ひたすら平家に背いて源氏の味方に」との内容で、「東国・北国が背いたのでさえ大変であるのに、これはどうしたものか」と動揺が広がった。
 二月十六日、今度は伊予国から飛脚がやって来た。去年の冬頃から河野通清*11を始めとする四国の者たち皆が、平家に背き源氏側についたので、平家に深く心を寄せていた備後国の住人・西寂*12伊予国へ渡り、道前と道後の境の高縄城*13にて、河野通清を討った。父が討たれた時、息子の通信*14は母方の伯父である安芸国の住人・奴田次郎*15のところへ行っていて居合わせなかった。よって父を討たれた河野通信は「心穏やかではいられない。どうにかして西寂を討ち取ろう」と機会をうかがっていた。西寂は、河野通清を討ってから、四国の乱暴な振る舞いを鎮め、この一月十五日に備後の鞆の津*16へ渡った。遊女たちを集めて遊んでいるうちに、前後不覚に酔いつぶれたところへ、死を覚悟した者たちを集めた河野通信が百人ほどで押し寄せた。西寂の側にも三百人以上がいたが、思ってもみない急の事だったので慌てふためくばかり。通信は抵抗する者を切ったり射たり、まずは西寂を生け捕りにして伊予国へ渡り、父が討たれた高縄城でその首をのこぎりで切ったとも、はりつけにして処刑したとも聞く。

*1:すけなが

*2:すけもち

*3:そんじょう:釈迦如来仏頂から出現した仏頂尊のうちで最も尊い

*4:河内源氏

*5:1108年

*6:第44代の宮司

*7:豊後国大野郡緒方庄に住み、宇佐氏と対立していたため反平家の立場をとった

*8:豊後国海部郡臼杵庄の住人

*9:豊後国大分郡戸次庄の住人で、緒方と同族

*10:嵯峨源氏の末裔で、渡辺党の支族であり、肥前国松浦郡に住む集団

*11:みちきよ:本姓は越智で、伊予国風早郡河野郷の豪族

*12:さいじゃく:備後国奴可郡の豪族

*13:愛媛県北条市高縄山にあった河野氏の居城

*14:みちのぶ

*15:安芸国沼田郡の住人

*16:とも:現広島県福山市の南端にある鞆町の事で、瀬戸内海有数の港として知られた