平家物語を読む76

花

巻第五 咸陽宮*1

 また、朝敵がその本懐を遂げなかった例を異国に求めると、燕の太子丹という者がいる。秦の始皇帝に捕らわれ監禁されて十二年になる頃、太子丹が涙を流して「私は本国に年老いた母がいます。暇をいただいて、この母に会いたいのですが」と言うと、始皇帝は「お前に暇を与えるのは、馬に角が生え、カラスの頭が白くなる時だ」とあざ笑って言った。これを聞いた太子丹は天を仰ぎ地に伏して、「どうか馬に角を生えさせ、カラスの頭を白くしてください。故郷へ帰って、今一度母に会いたいのです」と祈った。かの妙音菩薩*2は 霊山浄土*3を詣でて親不孝の輩を戒め、孔子顔回*4 は大陸に生まれて忠義と孝行の道を始めた。あの世の仏・妙音菩薩とこの世の仏・孔子が太子丹の親孝行の志を哀れんだため、宮中には角の生えた馬があふれ、庭前の木では頭の白くなったカラスが暮らし始めた。始皇帝はこの変事に驚いたが、「綸言汗の如し*5」と信じていたので、太子丹を赦免して本国へ帰した。だが始皇帝は悔しさの余り、ある計略を企てた。秦と燕との境に、楚という国がある。大きな川が流れており、この川に渡してある橋は「楚国の橋」と言った。始皇帝は軍を送り、太子丹がこの橋を渡ろうとすると川の真ん中で橋が踏み落ちるように仕掛けをさせた。いざ太子丹がこの橋を渡った時、どうして落ちない訳があろうか、太子丹は川へ落ちた。だが、少しも溺れる事はなく、まるで平地を行くかのように向こう岸へ着いたのだった。これはどうした事かと太子丹が後ろを振り返ると、数え切れないほどの亀が水上に浮かび上がっている。これらの亀が甲羅を並べ、その上を太子丹に歩かせたのであった。これも太子丹の親孝行の志を、あの世とこの世の仏が哀れんだためであった。
 太子丹は心に恨みを抱き、再び始皇帝に従う事はなかった。始皇帝は軍を送り込んで太子丹を討とうとしたため、太子丹は恐れをなして荊軻*6という兵士を始皇帝暗殺の計画に誘って大臣にした。そして荊軻は、田光先生*7という兵士を誘った。この田光先生が「あなたは我が身が若く盛んでない事を知っての上で言っているのでしょうか。千里を駆ける足の速い優れた馬がいたとしても、老いては駑馬にも劣るものです。今ではどうにもなりますまい。代わりに勇士を誘ってきましょう」と言い残して帰ろうとすると、荊軻は「この事は決して他人に口外しないでください」と言った。すると田光先生は「人に疑われるほど恥である事はない。この事が外にもれた場合に、私が疑われないように」と、門前にあるすももの木に頭をたたきつけ死んでしまった。
 また、燕に范予期*8という兵士がいた。これはもともと秦の将軍である。始皇帝によって親・伯父・兄弟を滅ぼされて、燕に逃げ込んでいた。始皇帝は世界中に、范予期の首をはねて持ってきた者には五百斤の金を与えるとの公示をした。これを耳にした荊軻が范予期の所へ行き、「お前の首に五百斤の賞金が懸けられていると聞く。お前の首を私によこせ。取って、始皇帝に献上しよう。始皇帝が喜んでお前の首をご覧になる時、剣を抜いてその胸を刺すのはたやすい事であろう」と言うと、范予期は興奮して大きく息つぎをしながら言った。「私は、親・伯父・兄弟を始皇帝によって殺された。これを思うと、夜も昼も怨念が骨の髄まで染み込むかのように辛く耐え難い。よって始皇帝を滅ぼすためであれば、我が首を与える事は何よりも簡単な事である」そして范予期は、自ら首を切って死に至った。
 また、秦舞陽*9という兵士がいた。これももとは秦の人間であったが、十三歳の時、仇を討って燕に逃げ込んでいた。比類がないほどの兵士であり、彼が怒った顔を向けると大男でも恐れて気絶し、また笑顔を向けると乳飲み子もなついてその手に抱かれたと言う。この秦舞陽を秦の都の案内者に誘い、荊軻と連れだって進む途中、ある山のそばに泊まった夜、近くの里から流れてくる管弦の音を聞いて、その調子*10を五行*11に当てて事の成否を占うと、敵である秦の始皇帝の運気は水、それに対して荊軻の運気は火であった。そうしているうちに夜も明けた。白色の虹が太陽にかかりながら、その光にさえぎられて途中で消えている*12。これを見て、「我々の本懐が遂げられる事は難しい」と荊軻は言った。
 とはいえ帰る訳にもいかない。そのうち一行は始皇帝の都・咸陽宮に着いた。燕の見取り図並びに范予期の首を持ってきた事を伝えると、臣下の者は首を受け取ろうとした。「人を介して差し上げる事は決してできません。直接、お渡しします」と伝えると、それならばと使者を迎えるための儀式を設けた上で、始皇帝は燕の使者を呼んだ。咸陽宮の周囲は、一万八千三百八十里と見積もられる。内裏は、三里高く築き上げられた土地の上に建てられ、長生殿・不老門があり、金で太陽が作られ、銀で月が作られている。真珠の砂・瑠璃の砂・金の砂が敷き詰められ、四方には高さ四十丈の鉄を心棒とした土塀が築かれ、殿の上にも鉄の網が張られていた。これは冥土の使者を入れないためである。秋に田へ降りた雁が、春に北国へ帰る飛行の妨げになる時は、雁門と名付けられた城壁の鉄の門を開けて、これを通した。また、阿房殿*13といって、始皇帝が常日頃から訪れ政治を行っている殿がある。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は五丈の旗矛*14を立てても届かないほどであった。屋根は瑠璃の瓦で葺かれ、その下では金や銀が輝いている。荊軻は燕の見取り図を持って、秦舞陽は范予期の首を持って、美しい石で作られた階段を上がった。余りに内裏が大きいのを見た秦舞陽がわなわなと震えだすと、臣下の者たちは怪しんで「秦舞陽には謀反の心がある。危険な人物を君主に近づけず、君子は危険な人物に近づかない。危険人物に近づく事は、死を軽んずる道である」と言う。荊軻が振り返って、「秦舞陽に謀反の心などない。ただ粗末な田舎しか知らず、皇居に慣れていないために戸惑っているだけだ」と言うと、臣下の者たちは皆、静かになった。よって、始皇帝の側に近づく事ができた。差し出された燕の見取り図と范予期の首を見ている時、始皇帝は見取り図の入っていた箱の底に氷のように光る剣を見つけ、すぐに逃げようとした。その時、荊軻始皇帝の袖をむんずとつかんで、その剣を胸に差し当てた。もはやこれまでかと思われた。数万の兵士が庭中に並んでいるが、どうする事もできない。ただ、反逆を企む家来によって危害を加えられる事だけを悲しんでいた。始皇帝が「私にしばしの暇を与えよ。最愛の后の琴の音を、今一度だけ聞きたい」と言うと、荊軻は少しの時間を与えた。始皇帝には三千人の后がいる。その中に花陽夫人という琴の名手がいた。この后の琴の音を聞けば、猛々しい兵士の怒りも和らぎ、飛ぶ鳥も落ち、草木も揺れ動くほどであった。これが琴の音を聞いていただく最後の機会になるだろうと、花陽夫人は泣く泣く引き受けた。どれほど素晴らしかった事か。荊軻も頭をうなだれ、耳をそばだて、反逆を企んだ家来の心にも油断が生じていた。夫人は更にもう一曲、演奏を始めてこう歌った。「七尺の屏風はいかに高くとも、思い切って飛べばどうして越えられない事があろうか。一筋の薄い袖衣はいかに丈夫でも、力任せに引けばどうして裂けない事があろうか」荊軻はこの歌に込められた意味を聞き取る事ができない。が、聞き取った始皇帝は袖を引きちぎり、七尺の屏風を飛び越え、銅の柱の陰に逃げてしまった。怒った荊軻は剣を始皇帝に向かって投げた。そこに、たまたま居合わせた当番の医師が薬の袋を投げたが、剣は薬の袋に邪魔されながらも、直径六尺の銅の柱を中ほどまでも貫いた。荊軻は他に剣を持っていなかったので、続けて投げる事もできない。そこに始皇帝が戻ってきて、剣を臣下から受け取り、荊軻を八つ裂きにした。秦舞陽も討たれ、燕に送り込まれた官軍によって太子丹も滅ぼされた。天が太子丹の企みを許さなかったので、白色の虹は日の光を貫いて通る事はなかったのだ。秦の始皇帝は生き長らえ、燕の丹は滅んだ。よって今回の頼朝も、きっと同じように謀反を達成する事はできないであろうと、平家に対してお世辞を言う人々もいたという。

*1:かんようきゅう

*2:東方の一切浄光荘厳国に住む菩薩

*3:中インド・マガタ国の都王舎城の東北にあった霊鷲山の事で、釈迦が常住して法華経を説いたので浄土と見なされた

*4:孔子の高弟

*5:天子の言葉は決して取り消す事ができない汗のようなものである

*6:けいか

*7:てんこう

*8:はんよき

*9:しんぶよう

*10:宮・商・角・徴・羽

*11:土・金・木・火・水

*12:「白虹(はっこう)日をつらぬく」白虹は兵、日は君主の象とされ、臣下の反乱が成就する前兆とされた

*13:あぼうでん:咸陽宮が狭小であるとして始皇帝渭水の南の上林苑中に造った壮大な宮殿

*14:矛の先に小旗をつけたもので、儀式に用いる