平家物語を読む70

Northern Shoveler

巻第四 三井寺炎上

 日頃は無分別に何でも訴えてくる比叡山延暦寺の僧たちも、今回は角を立てないようにと大人しくしていた。奈良の興福寺三井寺は、一方は高倉の宮を迎えに行き、一方はかくまったという事から、まぎれもなく朝廷にそむく敵と見なされた。よって三井寺興福寺も攻めるべきだと、五月二十七日、清盛公の四男である頭中将・重衡を大将軍、異母弟で薩摩守・忠度*1を副将軍に、総勢一万騎以上がまず三井寺を目指して出発した。三井寺は堀を作り、盾を垣根のように並べ、逆茂木*2を立てて待機していた。午前六時頃に、戦の開始の合図となる矢合わせをして、終日、戦い続けた。三井寺は僧兵以下の者が三百人も討たれた。戦が夜に及び辺りが暗くなると、官軍は寺に攻め入って火を放った。本覚院・成喜院・真如院・花園院・普賢堂・大宝院・清滝院・教大和尚本坊・本尊堂・八間四面の大講堂・鐘つき堂・経蔵・灌頂堂・護法善神の社壇・新熊野の御宝殿・堂舎のすべて、六百三十七の仏舎利の納塔、一千八百五十三件の大津の民家、智証大師円珍*3が納めた七千巻以上の大蔵経、二千体以上の仏像、これらすべてが見る見るうちに灰となったとは悲しい事である。天の諸神が奏でる美しい音楽もこの時から長く途絶え、竜神が受ける苦しみも増すように思われた。
 三井寺とはもともと、近江の擬大領*4の私寺であったのを、天武天皇に寄進し、その勅願寺にしたものである。本仏・弥勒菩薩も、弥勒菩薩が化現した人間だと言われた教大和尚が百六十年保ち、智証大師に託したものである。都士多天*5の摩尼宝殿*6から弥勒菩薩が地上に降り、竜華樹の下で成道する時を待ち続けるはずが、これはどういう事であろうか。智証大師は、この場所を伝法灌頂*7の霊跡とし、天智・天武・持統天皇の産湯の水を汲んだ事で「御井の寺」と言われていた事から、三井寺と名付けたという。このように神聖な遺跡であるのに、今となってはどうにもならない。顕教密教*8はたちまちに滅びて、仏道を修行する場所は跡形もない。三密*9を行う道場もなければ、鈴の音も聞こえない。夏籠もりのために仏前に供える花もなく、供える水を汲む音も聞こえなかった。経験を積んだ老僧と徳の高い僧は修行と学問を怠り、仏教の教義や修法を受け継ぎ伝えるはずの弟子は経文や教法から遠ざかってしまった。三井寺の長・円恵法親王*10は、兼任していた天王寺の長の位を奪われ、その他の高位の僧たち*11十三人もその官を奪われて皆、検非違使に身柄を預けられた。武勇に秀でた僧たちは、筒井の浄妙明秀に至るまで三十人以上が流罪になった。「このような天下の乱れ、国家の騒ぎはただ事とは思われない。平家の時代が終わる前兆ではないか」と人々は言った。

―巻第四 終わり―

巻第四の月日

*1:ただのり

*2:さかもぎ:先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べ、敵の侵入を防いだ

*3:第5代天台座主で、三井寺の再興に尽力した

*4:ぎだいりょう:郡の長官が欠員の時、仮に当てられた官

*5:としたてん:欲界六天のうち第四位の兜率天

*6:まにほうでん:兜率天の内院に住む弥勒菩薩の宮殿

*7:密教阿闍梨の位を継ぐ者に大日如来の法を授ける儀式

*8:天台・真言の教法

*9:身密・語密・心密で、手に印契を結び、口に真言を唱え、心に本尊を見る事

*10:後白河院の第五皇子

*11:僧正・僧都・律師の僧官と、法印・法眼・法橋の僧位