平家物語を読む68

American Goldfinch

巻第四 通乗之沙汰*1

 また、奈良にも高倉の宮の御子が一人、いらっしゃった。養父の讃岐守・重秀*2が出家の世話をし、共に北国へ向かっていたのだが、木曾義仲が都へ入った時、主君に仕立て上げようと考え、都へ連れて来て元服させたので、この御子は木曾の宮とも呼ばれた。還俗の宮という呼び名もあった。後に、嵯峨の北の山の辺に住まれたので、野依の宮とも呼ばれた。
 昔、通乗という人相家がいた。関白・藤原道長の長男である宇治殿*3、次男の二条殿*4を見て「関白を三代勤め、共に寿命は八十歳」と言ったのも、帥の内大臣*5を見て「流罪の相があります」と言ったのも、その通りになった。聖徳太子崇峻天皇*6は天命をまっとうせずに死ぬと予言した通り、崇峻天皇蘇我馬子に殺された。いかにも立派な人々とは、必ずしも優れた人相家という訳ではなくとも、このように見事な占いをしたものだった。それであるのに、人相少納言*7の高倉の宮への予言*8は、まったくもって失態ではなかったのか。中頃の兼明親王*9具平親王*10は、共に博学でそれぞれ、前中書王・後中書王と呼ばれ、どちらも賢王・聖王の皇子でいらっしゃったが、皇位に就かれる事はなかった。けれども、謀反などまったく起こされなかった。また、後三条院の第三皇子・資仁親王*11も、学才に優れていらっしゃったが、白河院がまだ皇太子でいらっしゃった時、「あなたが皇位に就かれた後はどうかこの宮を皇位に就かせてください」と、後三条院の遺言があったにもかかわらず、白河院はどう思われたのかこの資仁親王を結局、天皇にはされなかった。せめてもの償いとして、資仁親王の御子に源氏の姓を授けられて、無位から一度に三位に叙し、そのまま中将の位を与えられた。天皇から源氏の姓を授かって臣籍に下った皇子、いわゆる「一世の源氏」が、無位から三位になる事は、嵯峨天皇の第十皇子である賀陽院大納言・源定殿以外には、これが初めての事だったと聞く。花園左大臣源有仁公とは、この方の事である。
 高倉の宮の謀反の間、怨敵退散のために密教の修法を行った身分の高い僧たちには、褒美が与えられた。宗盛卿の息子である侍従*12・清宗は三位になり、三位の侍従と呼ばれた。今年わずかに十二歳、父の宗盛卿でもそのくらいの年では*13右兵衛佐に任じられたばかりであった。このようにたちまち公卿*14に上がる事は、摂政・関白以外では、いまだ聞いた事がなかった。文書には「源以光・頼政法師父子追討の賞」とあった。源以光とは高倉の宮の事である。間違いなく後白河法皇の皇子を討ったというのに、その方を臣下と見なしたとはあきれた事であった。

*1:とうじょうのさた

*2:藤原道綱の子孫で、その妻が高倉の宮のまたいとこに当たる

*3:頼道

*4:教通

*5:道長の兄・道隆の子、内大臣藤原伊周

*6:しゅじゅん:第32代の天皇

*7:少納言・藤原維長

*8:高倉の宮が帝位に就くという予言:巻第四「源氏揃」参照

*9:醍醐天皇の第九皇子

*10:村上天皇の第七皇子

*11:すけひと

*12:天皇にそばに仕える役で、中務省に属した

*13:十四歳の時

*14:官職ならば参議以上、位ならば三位以上