平家物語を読む46

鳥

巻第三 医師問答

 大臣の重盛公はこの占いの事を伝え聞いて、非常に心細く思われたのだろう、その頃、熊野に参詣する事があったが、本宮の証誠殿の前で夜通し、願意を記した文を読み上げた。「父・清盛の様子を見ていると、道に外れた悪事を重ね、何かにつけて君主を悩ませています。重盛が長男として、しきりに諌めようとしていますが、愚かな身ゆえ及ばず、父が私の忠告に耳を傾けてくれるまでに至りません。その振る舞いを見ていると、父一代の繁栄でさえも危ういように思われます。一族がその後、親の名を天下に上げ、その功績を後世にとどめる事は難しいでしょう。よって今、重盛は身分不相応にも思いました。なまじっか重臣の列に加わり栄枯盛衰に身をさらす事は、良臣・孝子の法に当てはまりません。名誉から逃れ、身を引いて、今生の名望を投げ捨て、死後浄土に往生して仏果を得るのがいいでしょう。だが、煩悩に束縛され、果報の卑しいこの身であるので、善悪の判断に迷い、出家の志を貫く事ができません。権現金剛童子、子孫繁栄が絶える事なく、君主に仕えて政治を行う事ができるように、清盛の悪心を和らげ、国を安泰にして下さい。栄華が清盛一代限りで終わり、子孫が恥を受けるのであれば、重盛の寿命を縮めて来世で受ける苦しみを助けて下さい。このどちらかの願いをどうかお聞き届け下さいますよう」このように心を込めて祈願していると、灯篭の火のようなものが重盛の体から出て、ぱっと消えるようになくなった。たくさんの人がこれを見ていたが、恐ろしくて口に出す者はいなかった。また、都に戻る際、岩田川*1に差し掛かった時、白い狩衣の下に薄紫色の衣を着ていた嫡男の少将・維盛以下の公達が、夏だったので何とはなしに川で水と戯れていたところ、狩衣が濡れて下の色が写り、それがまるで喪服のように見えた。これに驚いた筑後守・貞能が「何ということでしょう、あの狩衣は。ひどく不吉な様子に見えてしまいます。着替えられた方がいいのではないでしょうか」と言うと、重盛公は「私の願いは既に成就したようだ。その狩衣をわざわざ着替えてはいけない」と言って、特別に岩田川から熊野まで、謝意を示すお礼の幣を使者に届けさせた。人々は変だと思ったが、重盛公の真意はわからなかった。そうであるのに程なくして、この公達は本当の喪服を着る事になったのだから不思議な事である。
 熊野から都へ戻って後、数日も経たないうちに重盛公は病の床に伏した。権現が願いを聞き届けられたからだと、治療もせず、祈祷もしなかった。その頃、宋から来た優れた医者が日本に滞在していた。福原の別荘にいた清盛公は越中守・盛俊を使いにやって、重盛公へ「病がいよいよ悪くなったとの噂を聞いた。また、今、宋から優れた医者がやって来ている。ちょうどいい幸いと思う。この医者を呼んで治療を受けられよ」と伝えた。これを聞いて重盛公は助けられながら起き上がり、盛俊を呼んで言った。「まず、治療の事だが、とてもありがたく聞きましたと伝えよ。さて、お前もよく聞きなさい。醍醐天皇はあれ程の賢王でいらっしゃったが、異国の相人*2を都の中へ入れた事については、末代までの賢王の過ち、我が国の恥とであると見られている。ましてや重盛のような凡人が異国の医者を都の中へ入れては、国の恥にならないはずがない。漢の高祖は三尺の剣を携えて国を治めたが、淮南の黥布*3を討つ時に流れ矢に当たって傷を被った。后の呂太后が良医を呼んで傷を見させると、医者は『この傷を治しましょう。ただし五十斤の金を私に与えなければ治しません』と言う。高祖は『我々が天の加護を強く受けている間は、多くの戦いがあり傷を被る事があっても、それに痛みはなかった。運は既に尽きたのだ。人の寿命は天の計らいによるもの。たとえ扁鵲*4といえども、何の効果を上げる事もできないだろう。だが、金を惜しんでいると思われるのもどうか』と、五十斤の金を医者に与えながらも、傷を治療させなかったという。私の耳には先人の言葉が残っていた。今になって、なるほどと納得している。重盛は身分不相応にも公卿の列に加わって、内大臣にまで上った。その運命は天意に任されている。どうして天意を察せずに、愚かにも治療などを受ける事ができようか。私の病気がもし前世から定められた業の報いによるのであれば、治療を行ってもよくはならないだろう。また、現世の災厄によって受ける苦難であるならば、治療を行わなくとも助かるはずである。あの奢婆*5の治療が及ばずに、釈迦はクシナガラ郊外の跋提河のほとりで入滅した。これはまさに、前世から定められた業の報いによる病が癒されない事を示すためであった。前世の報いによる病でも治療で治るというならば、どうして釈迦は入滅したというのか。前世の報いによる病の治療が不可能だという事は、明らかだ。治療されるのは仏体で、治療するのは奢婆だったのだ。だが、重盛の身は仏体ではなく、名医と言えども奢婆には及ばない。たとえ四部の書*6に通じ、数多くの治療法に長じていたとしても、どうして生滅無常の世に生きる罪に汚れた身を救うというのか。たとえ五経の説*7に詳しく、もろもろの病気を癒すといえども、どうして前世での悪業の報いによる病を治すというのか。もしそのような医術によってこの命が助かるようであれば、我が国の医道はないも同然だ。医術の効果がないのなら、面会しても無駄である。ましてや我が国の大臣が異国からふらりとやって来た客に会う事は、一つには国の恥であり、また国の医道が次第に衰えていく事にもつながる。たとえ死ぬとしても、重盛はどうしても国の恥を思わずにはいられない。そう伝えよ」盛俊は福原の邸に戻り、この事を泣きながら清盛公に伝えた。清盛公は「これ程まで、国の恥を思う大臣は上古にも聞いた事がない。ましてや末代の今にいるとも思えない。日本に不相応な立派な大臣であるので、きっと今回の病で亡くなってしまうのだろう」と言って、泣きながらも急いで都へ向かった。
 治承三年七月二十八日、重盛公は出家した。法名は浄蓮*8となった。そして八月一日、心を乱さずに死に臨んで仏に祈り、ついに亡くなった。年は盛りの四十三歳、悲しい事である。無理を押し通す清盛公を、重盛公が諌めなだめていたから、世の中も穏やかだったものを。今後、国にどのような事が起こるかと、京中の人々は身分の高い者も低い者も皆が嘆き合った。前の右大将・宗盛卿*9の身内の者たちは「とうとう、大将殿の時代がやって来た」と喜んだ。親が子を思う気持ちの常として、どんなに愚かな子であっても子に先立たれる程悲しい事はない。ましてや重盛公は平家の重要人物で、今の世の賢人であったので、別れを思っても一家の衰微を思っても、いくら悲しんでも悲しみ足りない程であった。世間は良臣を失った事を嘆き、平家は武略が廃れる事を悲しんだ。そもそもこの大臣は、容儀が端正で、偽りのない心を持ち、才芸にも優れ、言行がいつも一致している立派な人であった。

*1:今の富田川のことで、熊野の参詣者はこの川で垢離を取った

*2:人相を観る人

*3:げいふ:英布のことで、罪を犯し、顔に入れ墨(黥:げい)をされる極刑を受け、こう呼ばれた

*4:へんじゃく:春秋戦国時代の伝説の名医

*5:ぎば:中インド・マガダ国の名医

*6:中国の医書

*7:古代医学で尊重する五部の医書

*8:屋代本では「照空」

*9:重盛の母違いの弟