平家物語を読む42

Ring-billed Gull

巻第三 少将都帰*1

 年が明けた治承三年の一月下旬に、少将・成経と康頼は肥前国鹿瀬庄を発った。都への道程を急いだが、寒さはなお厳しく、海上もひどく荒れていたので、岸に沿ったり島を伝ったりして、二月十日頃になってようやく備前の児島に着いた。そこから父・成親殿の住んでいた所を訪ねてみると、竹の柱や古びた襖などに、気の向くままに書き散らされた文字があった。成経は「人の形見に、その人が自分の手で書いた文字以上のものはない。書き残されている上は、どうして読まずにいられようか」と、康頼と二人で読んでは泣き、泣いては読んだ。「安元三年七月二十日、出家、同二十六日、信俊来る」と書いてあるのを見て、初めて従者であった信俊がここへやって来たことを知った。その近くの壁には「三尊*2が浄土から迎えに来る手がかりができた、九品*3いずれかの浄土に往生すること疑いなし」とも書かれていた。言いようもない程の嘆きの中にいたが、これを見て「やはり極楽浄土への往生を望まれていたのだ」と、いささか心強い思いがしたのだった。
 墓を訪ねてみると、松林の中に、それとわかるような土を盛り上げた場所もない。土が少し盛り上がっている所で、成経はかしこまり、泣きながら生きている人に話しかけるように話し始めた。「遠いあの世からこの世の人を守る方になられた事は、島で風の便りに聞きましたが、思うようにできない辛い身の上でありましたので、すぐに来ることもできませんでした。あの島へ流されてからは頼りになるものは何もなく、一日一日の命がありがたいものでした。そうは言っても、そのはかない命が消えずに二年が過ぎ、こうして都へ連れ戻される喜びはもちろんの事ですが、父がこの世に生きていらっしゃるのをこの目で見る事ができてこそ、生きている甲斐もあるというものです。ここに来るまでは心も急ぎましたが、今からは急がねばとも思いません」もし成親卿が生きていたのならば、どうしたのか、などと尋ねるものを、あの世とこの世に隔てられ、言葉を交わす事もできない事程、嘆かわしい事はない。苔の下で誰が答えるというのだろう。聞こえるのは、ただ嵐に騒ぐ松の響きばかりだった。その夜は一晩中、康頼と二人で経文を唱えながら墓を回り、夜が明けると新しく墓の土を盛り直し、柵を作った。墓の前に仮小屋を造り、七日七夜間、念仏を唱え、経文を書いて、最後の日には大きな卒塔婆を立て「過去聖霊出離生死証大菩提*4」と書き、年号月日の下には「孝子*5成経」と書いた。これを見た者は、人情のわからないような身分の卑しい木こりでさえ、子以上の宝はないと、涙を流さない者はいなかった。新しい年が来ても、忘れられないのは、いつくしみ育てられた昔の恩で、まるで夢のように幻のように蘇ってくる。尽きないのは故人を恋い慕って流れる涙だった。これを見ていた三世十方*6の仏・菩薩は成経を哀れみ、成親卿の霊魂はどれ程までに嬉しかった事だろう。「今しばらく、念仏を唱える事によって生じる功徳を積みたいところですが、都で待っている人たちも気がかりに思っている事でしょうから、また、必ずやって来ます」と成経は故人に別れを告げ、泣きながらその場を去った。墓の下で成親卿も、名残惜しく思った事だろう。
 同年の三月十六日、成経は明るいうちに鳥羽へ着いた。故成親卿の別荘・州浜殿も鳥羽にあった。長く住んで古くなり、年月が経っていたので、土塀はあっても屋根はなく、門はあっても扉はなかった。庭に入ってみると、人の往来がなくなったせいで苔に覆われている。池のほとりを見回すと、紅葉や菊を植えた南殿の築山から吹く春風のせいで、池には白波が寄せては返し、紫のおしどりと白のかもめが遊泳している。これらを興じた人が恋しくて、成経は涙が止まらなかった。家はあっても羅門*7は破れ、蔀や戸もなくなっていた。「ここに確かに、父はいらっしゃったのか。この引き戸を開けて、確かに出入りなされたのか。確かにあの木を、自ら植えられたのか」などと、何かを言う度に成経は父の事を恋しそうに話した。三月の半ばだったので、まだ花は残っていた。山桃と桃、すももの梢はいかにも春という季節を心得ている様子で、美しい色を見せていた。昔の主人はいないけれども、花は春を忘れはしない。成経は花を咲かせる木のもとに立った。
   桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰棲*8
   ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむかしのことをとはまし*9
これらの古い詩歌を口ずさむと、康頼もその折その折に感傷を誘われ、墨染めの袖を涙で濡らした。もうすぐ日が暮れる頃になっても余りに名残惜しく、結局、夜がふけるまでそこにとどまった。夜がふけるにつれ、荒れた宿の習いであるように*10、古い軒の板間からは少しの陰りもない月の光が差し込んだ。山村では暁を迎えようとしていたが、家路を急ぐ気にはならない。だが、いつまでもとどまってはいられないので、迎えの車を呼んで待っていた。辛いと泣きながら州浜殿を出て、都へ向かうその心の内は、どれ程かなしく、また嬉しくもあった事であろう。康頼のためにも迎えの乗り物はあったが、成経との別れが近付いていたので康頼は名残惜しみ、それには乗らずに成経と同じ牛車の後部席に乗って七条河原まで行った。そこからは別々に行く事になっていたが、康頼はなかなか行こうとしない。桜花の下で半日を共に過ごしただけの客、月を眺めて一夜を過ごしただけの友、にわか雨から逃れて一本の木の下で出会った旅人、それぞれが別れる時でも名残惜しいという。それなのに、二人はみじめな島の住まい、浪を渡る船の上と、一緒に島流しになり、同じく赦免された身であるので、前世のありがたい因縁もまた浅くはなかったのだと思い知ったのであろう。
 少将・成経は舅である宰相の宿所へ立ち寄った。霊鷲山*11にいた成経の母が、昨日から宰相の宿所にて息子の到着を待っていた。成経が入ってくる姿を見るやいなや、「命あれば*12」と言うばかりで、衣をかぶり泣き伏してしまった。宰相の女房・侍たちも皆が集まり、嬉しさに涙を流した。成経の北の方と乳母の六条の喜びはどれ程であった事だろう。乳母の六条は心配の余り、黒かった髪がすべて白くなり、あれ程華やかで美しかった北の方はいつしかやせ衰えて別人のようになっていた。成経が流された時、三歳だった幼子は髪を結う程にまですっかり大きくなっている。その子のそばに三歳くらいの幼子がいるのを見て、成経が「あの子は誰だ」と聞くと、乳母は「この子こそが」と言うばかりで袖に顔を押し当てて涙を流した。それを見て成経は「都を離れる時、気分の優れない様子であると思っていたが……何と無事に育った事か」と思い出しては悲しんだ。成経はもとのように後白河院に仕え、参議で近衛中将まで位を上げた。康頼は東山双林寺*13に自分の別荘があったので、そこに着いてまず、その思いを綴った。
   ふる里の軒の板間に苔むしておもひしほどはもらぬ月かな*14
そしてその日からそこにこもって、辛かった過去を思いながら、宝物集*15という物語を書いたと聞く。

*1:しょうしょうみやこがえり

*2:阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩

*3:極楽浄土には上中下の三品のそれぞれに上中下の三生があり、あわせて九品になる

*4:死者の精霊が生死の苦界を離れて大きな悟りを得られるようにと祈願する言葉

*5:父母の祭祀を行う時に、子が自分を称する語

*6:三世は過去・現在・未来、十方は四方(東西南北)と四維(東北・東南・西北・西南)と二方(上下)

*7:格子の一つで、戸または蔀の上に細い木を二本づつ交差させて模様にしたもの

*8:「桃やすももの花はものを言わないため、春が幾度訪れたのか聞く事もできず、霞はたなびいて跡を残さないので、昔誰が住んでいたのか知る事もできない」和漢朗詠集・菅原文時の詩の一節

*9:「故郷の花がもし、ものを言う事ができたなら、昔の事を尋ねてみたいものだ」後拾遺集・出羽弁の歌

*10:「君なくてあれたる宿の板間より月のもるにも袖はぬれけり」和漢朗詠集故宮をふまえている

*11:東山区にある高台寺の南東の山

*12:「命あればことしの秋も月は見つ別れし人に逢ふ夜なきかな」新古今集の歌により、命あればこそ我が子に再会できたの意

*13:円山公園の東、真葛原にある天台宗の寺

*14:故郷の別荘の軒の板ぶきは苔が生えすっかり荒れ果てていて、思っていた程には月の光も差し込まない事よ

*15:仏教説話集